皇位継承の危機は今だけのことではない。奈良の昔、聖武天皇の御代は特に天平時代と呼ばれ、日本文化史において一つのピークを迎えていた。国際色豊かな平城の都は今日もロマンで語られ、宮廷も栄華を楽しんでいたかのように思える。
大阪府泉南郡岬町深日の国玉神社の下に「深日行宮址」の碑がある。
行宮(あんぐう)とは天皇の仮の宿泊所を言うが、この和歌山に近い地にお泊りになったのは、何方だろうか。説明板を読んでみよう。
読めない。が、称徳天皇、花山法皇、順徳天皇の名を読取ることができる。ここでは、称徳天皇に注目して話を進める。あの偉大な聖武天皇に後継男子は育たず、阿倍内親王が21歳で皇太子となる。32歳の時、譲位によって即位し孝謙天皇となる。41歳で淳仁天皇に譲位する。この頃、淳仁帝に近い藤原仲麻呂が権力を確立する。
しかし、歴史は動く。女帝は44歳の時、看病をしてくれた道鏡と出会う。後継者を持たない天皇の心身ともに支えとなった道鏡は急速に昇進する。これに焦りを覚えた権力者、藤原仲麻呂はクーデタに打って出ようとするが敗死する。淳仁は廃帝として淡路に流され、女帝が重祚し称徳天皇となる。この時、天平宝字八年、764年である。
翌年は改元により天平神護元年となる。この年、有力な後継者である和気王が謀反の疑いにより殺される。そして、秋に女帝の紀伊行幸が敢行される。写真の深日行宮はこの時のものである。岬ライオンズクラブ『みさき風土記』を読んでみよう。
天平の時代,深日に行宮(天皇の旅先での仮宮殿)がつくられたことが続日本紀に記されている。それによると、天平神護元年(765)人皇第48代称徳天皇が、紀伊国の玉津島(和歌浦)に行幸され、海部郡岸村(和歌山市貴志)の行宮から深日行宮まで来たとき、西の空が暗くなり,常と異なる暴雨風となった。そこで紀伊守小野朝臣小贄(おののあそんこにえ)が守護して送り申し上げたというのである。
この記事を『続日本紀』で確認してみよう。まずは天平神護元年9月21日条である。
庚戌、遣使造行宮於大和、河内、和泉等国、以欲幸紀伊国也。
紀伊国に行幸するため大和、河内、和泉に行宮を造らせたとある。出発は10月13日。曽祖父の草壁皇子の御陵を経て、18日に紀伊国の玉津嶋(和歌山市和歌浦)に到り、しばらく滞在した。ここで淡路廃帝(淳仁)の死の知らせを聞く。帰途に就いたのが25日。和泉国に入ったのが26日である。『続日本紀』で確認しよう。
癸未、還到海部郡岸村行宮。
甲申、到和泉国日根郡深日行宮。于時、西方暗暝、異常風雨。紀伊国守小野朝臣小贄、従此而還。詔、賜絁卅疋、綿二百屯。
ちなみに、ご褒美にあずかった小野小贄は、「あおによし奈良の都は…」で知られる小野老の子である。女帝は29日に河内国の弓削行宮へ到着する。そして、この地において道鏡に太政大臣禅師の地位を授ける。閏10月2日のことである。弓削行宮は今の八尾市にある由義神社の辺りにあったとされる。弓削道鏡出身の地である。
称徳女帝の紀伊行幸は物見遊山ではない。道鏡政権を成立させるための示威的な国家行事であった。ライバルを排除することで政治環境を整え、故郷に錦を飾らせるという見事な演出である。深日行宮にお泊りになった頃、女帝はどのようなお気持ちだったのか。新たな時代の幕開けを目前にして気分は高揚していたに違いない。
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