日本史上、遊女がどれほど多くいたのか分からないくらいだが、名前を残すことはほとんどない。儚いといえば、儚い。しかし、懸命に生きた姿でもある。一面的な見方では捉えきれるものではない。
一夜の宿を断られた西行法師がなじって詠んだ歌に、煩悩を捨てきれないお坊さまだこと、と遊女の妙(たえ)は軽く返歌した。謡曲『江口』では、遊女の江口の君は普賢菩薩に化身し白象に乗って西の空へ消えてゆく。
汚れた身の中に潜む聖性、聖なる身の中に淀む俗性、それが人というものだ。と、話をまとめてはいけない。今日の紹介はこのお堂である。
大東市野崎二丁目の野崎観音(慈眼寺)に「江口之君堂」がある。
説明板にはこのお堂の縁起が次のように記されている。
当寺中興開基江口之君堂縁起
江口の君光相比丘尼は、淀川の対岸江口の里の長者で藤原時代の終り頃重い病気にかかられ、当山の観音さまにおまいりをして病気をなをしていただかれました。
同じ病気になやむ人たちをたすけて下さいますので婦人病の方やこどものほしい人たちが沢山おまいりになります。
このお堂を左から年の数だけおまわりになると、ご利益がいただけます。
江口の君は、平資盛の娘ともいわれる妙(たえ)という遊女であったが、仏道に入ってからは光相(こうそう)比丘尼という。
「江口の君堂」は大阪市東淀川区南江口3丁目の寂光寺にもある。いやむしろ江口にあるこのお堂のほうが有名だ。江口の君の庵跡を寺にしたのが寂光寺だという。これに対して野崎観音は、衰微していたところを病の平癒を感謝した江口の君が再興したとの由緒を伝える。
伝説と信仰の中で事実は見えなくなっているが、明日の細やかな幸せを願った女性の思いが「江口の君」を造形したのであろう。
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