夜露死苦とか仏恥義理とか数あるヤンキー当て字の中でも愛羅武勇は秀逸だ。英文の意味を理解すると同時に日本語の音として聞き取り、意味に関連のある漢字を当てはめている。ヤンキーであれ誰であれ愛の告白は勇気がいるものだ。
畏れながら神社にも当て字のような難読な名称がある。ところが、読みにくいほど由緒がありそうに感じるからおもしろい。
大阪市東住吉区矢田七丁目に「阿麻美許曽神社」が鎮座する。何と読むでしょう? はい、答えは「あまみこそ」でした。「あま」は一般に「天」と書くことが多いが、ここでは「阿麻」である。面白いのは大和川の左岸は松原市なのに、この神社の一帯だけは大阪市となっていることだ。
境内に「行基菩薩安住之地」と刻まれた石碑がある。こちらに注目したい。
社頭の説明板(松原ライオンズクラブ設置)には、次のように記されている。
手水舎の東側には「行基菩薩安住之地」の石碑が建っている。江戸時代には、同地に奈良時代の高僧である行基が居住していたという伝承があった。神社北西の大和川に架かる橋を行基大橋と呼ぶのはこのためである。
実にあいまいな伝承だ。確かに行基は橋を架けるなどの土木工事を行い民生の向上に尽くした。だからといって、行基の事績には程遠い昭和53年完成の橋を「行基大橋」としてよいのだろうか。
『大阪府全志』巻之四の矢田村の項で「阿麻美許曽神社」の記述を読んでみよう。
社頭は老楠古樹鬱葱し、東北隅に行基池あり。池の北方に行基塚といへるあり、東西貮間・南北壹間半・高さ五尺の封土なり、村老の口碑に依れば、昔行基の住せし所にして、塚はその墓なりといふ。
クスノキの巨木はあるが、行基池や行基塚は見当たらない。しかし国際日本文化研究センターのデータベースで検索して、昭和30年和楽路屋発行の『最新大阪市街地図』を閲覧すると、神社の北方、大和川対岸の地に、くの字形をした「行基池」を見つけることができた。
さらに、池のあったあたりから北に向かうと墓地があり、その中に「行基菩薩之墓」を見つけた。さらに古い墓が近くにあるらしい。
『大阪府全志』で神社境内にあるように記述されていた行基池と行基塚は、川を挟んでいるが旧矢田村の地内にある。大和川両岸の行基ゆかりの地。それらを結ぶ橋がまさに行基大橋であった。地域的特色をよく表す命名といえよう。
墳墓が今も篤く信仰されるなど、行基伝説はこの地に息づいている。史実としては不確かであるとはいえ、行基菩薩が安住しているのは、この地をおいて他にはないだろう。
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