久しぶりのブログ更新である。これを心待ちにしていた方がどれくらいいらっしゃるのか分からないが、お久しぶりです。残暑が本当にきついです。みなさんはいかがお過ごしでしたか。また、感想を聞かせてください。
死刑を廃止して仇討を復活せよ、との論を読んだことがある。呉智英『サルの正義』(双葉社)所収の「暴論に正論あり」である。人間の自然権に復讐権がある。自分や近しい人に対する攻撃に対する報復である。やられたらやり返すという自然な行い、それを近代国家が奪って死刑制度がつくられた。
しかし、国家権力という無機質なモノが人の命が奪うという非人間的な行為であることを考えれば、死刑制度は廃止すべきだ。それでも、死刑とならなかった犯人への遺族の怒りと憎しみ、それを思えば犯人への報復は必要である。ならば、仇討を復活すればよい。暴論に正論ありだ。
阪南市山中渓に「日本最後の仇討ち場」の石碑がある。和歌山県と大阪府の境にある。一般には境橋の仇討という。
「日本最後の仇討」と称されるものが4つある。
① 明治13年(1880)12月17日、臼井六郎が両親と妹の仇である一瀬直久を東京の旧秋月藩主・黒田邸で討った。六郎の父・亘理は明治元年(1868)5月23日、筑前秋月の自邸で勤王への傾斜に反対する干城隊の一味に殺害されていた。仇討決行後、六郎は裁判にかけられ終身禁固刑となったが後に釈放された。
② 明治4年(1871)11月23、24日、金沢藩筆頭家老・本多政均の旧臣12名が手分けをして主君の仇として岡野悌五郎、菅野輔吉、多賀賢三郎を討った。主君である本多政均(ほんだまさちか)は新兵器による軍制改革を進めたことから明治2年(1869)8月7日、金沢城内で旧守派に刺殺されていた。明治5年(1872)11月4日、藩府により十二義士に切腹が仰せ付けられた。
③ 明治4年(1871)4月16日、肥後の玉名石貫で下田恒平が父の仇である入佐唯右衛門を討った。捕縛された唯右衛門を護送する役人に頼み込んでの決行だった。恒平の父・平八は文久元年(1861)4月6日、江戸藩邸で口論の末、唯右衛門に殺害されていた。明治4年7月13日、恒平は藩府から跡目相続を許可され金子を賜った。
④ 文久3年(1863)6月2日に起きた仇討については、阪南ライオンズクラブの寄贈による石碑に次のように記されている。
安政4年(1857年)、土佐藩士広井大六は、同藩士棚橋三郎に、口論の末切り捨てられた。
大六の一子岩之助は、当時江戸に申し出て、いわゆる「あだうち免許状」を与えられた。(安政5年)
岩之助は、加太にひそんでいた三郎を発見し、紀州藩へ改めてあだうちを申し出たところ、紀州藩としては「三郎を国ばらいとし境橋より追放するので、あだうちをしたければ境橋附近、和泉側にてすべし…」と伝えられた。
文久3年(1863年)、岩之助は境橋の北側で三郎を待ちうけ、みごとにあだうちを果したとされる。
これは日本で許された最後のあだうちであると伝えられる。
仇討の場所が天領であったことから、岩之助は堺奉行所に身柄を拘束されるが、すぐに土佐藩に引き渡された。ちなみに岩之助は、元治元年(1864)に病死している。
4つの「日本最後の仇討」のうち、最も知られているのが①である。2011年2月26日に『遺恨あり 明治十三年最後の仇討』としてテレビ朝日系列で放映された。臼井六郎を藤原竜也が好演していた。
②は『明治忠臣蔵』(中村彰彦)として小説化されている。明治6年(1873)2月7日に「敵討禁止令」が出される直前に起きた最後の仇討というわけだ。
①と②において討手が処罰されたのに対し、③は藩当局が激賞したのが特徴である。めでたく終わった最後の仇討である。
①②③のいずれにおいても討手が私的に行動を起こしていることに対して、④は免許状を得ている。つまり許可を得た最後の仇討というわけだ。
基準をどこに置くかで幾通りもの解釈が生まれる。そこが歴史の面白いところだ。こうして客観的に俯瞰できる後世に生きる者にとってはさながらドラマ鑑賞であるが、事件の渦中にあった者たちの心中はいかばかりであったか。人の命が奪われるだけに「おみごと」だけでは済まされない。
追記(H29.12.17)
現在、赤穂市立歴史博物館で特別展「藩儒村上氏ー文久事件・高野の仇討ー」が開催中だ。今回紹介されている「高野の仇討」もまた、「日本最後の仇討」と呼ばれることがある。上記と同様に記録しておこう。
⑤ 明治4年(1871)2月30日、高野山麓で赤穂藩儒・村上天谷の遺子ら7名が、親の仇である西川升吉ら7名を討った。村上天谷は文久2年(1862)12月9日、西川ら急進的な尊王攘夷派に殺害されていた。仇討を決行した7名に対しては死罪となるところ、西郷隆盛の計らいにより明治6年(1873)2月7日に罪一等を減じる判決が出された。「敵討禁止令」が出されたのも同日である。
⑤は「敵討禁止令」という太政官布告が出されるきっかけとなったので、最後の仇討というわけだ。
あおちゃんさま
ご教示いただきまして、大変ありがとうございます。
多くの情報を集めねばならない敵討ちは、単独ではなかなか成し遂げられないでしょうね。勉強になります。
投稿情報: 玉山 | 2020/07/05 19:37
熊野街道歩きをしていて④の碑を、高野街道歩きをしていて⑤の碑及び墓碑を見ていました。敵討ちが私闘ではなく、許可を受けその作法に則ったものであるとすれば、④が最後のものとなるのでしょうね。
さて、④の土佐藩士広井磐之助の敵討ちに勝海舟、坂本龍馬、勝の塾生らが援助したといわれていることをご存じでしょうか。坂本龍馬の池内蔵太の母宛文久3年6月16日付け手紙のなかに「引井岩之助のかたきうち」(宮地佐一郎『龍馬の手紙』PHP文庫、66頁)という文言が見え、宮地氏は解説において「勝や塾生の力添え」「海舟や龍馬の援助」と述べています。ここで宮地氏は直接的な証拠となるものを明示してはいませんが、なんらかの確証をもってこれを書いているのではないかとも思います。検討されてみてはいかがですか。
投稿情報: あおちゃん | 2020/07/05 09:34
館長さま
当記事をお目に留めていただきましたこと、光栄に存じます。ブログを拝見させていただきました。幕末維新についての造詣の深さに敬服する次第です。天誅組には興味があるので機会を見つけて史跡を巡りたいものです。ありがとうございました。
投稿情報: 玉山 | 2014/10/08 15:12
丁度、この事件を教材にしようと久しぶりにこの境橋に出向きました。
4つの仇討が分かりやすく書かれていて有り難いです。
投稿情報: 館長 | 2014/10/07 08:42