豊臣秀吉は木下藤吉郎、羽柴筑前守と名を変えてきたのだが、そのことは天下一の出世人という彼の人生を端的に象徴している。今日は武将として力を伸ばした時代の「羽柴」姓ゆかりの史跡である。
福井市中央一丁目の柴田神社に「柴田勝家公像」がある。柴田神社の御祭神はもちろん柴田勝家公である。像を制作したのは雨田光平という彫刻家にしてハープ奏者、筝曲家という福井では有名な芸術家である。
像の左に「北の庄城址」と刻まれた笏谷石の碑が写っている。ここは北ノ庄城の本丸跡だそうだ。資料館には出土した石製鬼瓦が展示されていた。鬼柴田を彷彿させる。
今年の4月14日には、第27回ふくい春まつりのメーン行事「越前時代行列」が行われ、柴田勝家役を照英、お市の方役を井上和香が務めた。毎年、有名な役者さんが招かれているようだ。福井市民には大人気の武将である。
神社境内に「柴田神社之碑」が建てられている。明治期に建てられた石碑は昭和23年の福井大地震で倒壊し、現在の碑は明治百年記念の再建である。碑文は柴田勝家公の人物と治績を顕彰する内容であるが、碑文に次のような一節がある。
猴郎竊権 忠志叵奪
(サルの秀吉は主家から権力をかすめ取ったが、勝家公の忠義の心は奪うことはできなかった。)
織田家をないがしろにして権力をわがものにした秀吉よりも、勝家公のほうが忠義の点で立派だったというわけだ。また、次のような一節もある。
抑公之挙兵雖事不成而至其忠義之節則有大可見焉者
(そもそも、勝家公が秀吉に対して兵を挙げたことは、うまくいかなかったとはいえ、主君への忠節において大いに見るべきものがある。)
較之丹羽長秀党秀吉後大悔恨託病自殺
(これに比べて、丹羽長秀は秀吉側についたが、そのことを後に大いに悔恨し、病となって自害した。)
其優劣果何如哉
(その優劣は果たしていかなるものであろうか。)
なぜ、ここで丹羽長秀が登場するのかといえば、勝家公の死後に秀吉から越前を拝領し北ノ庄城に入ったからである。病死したことは確かだが、悔恨や自害についてはあやしい。いずれにしても、同じ北ノ庄城主とはいえ、勝家公=優、丹羽長秀=劣と評価がまったく異なるということだ。
福井市左内町の西光寺に「柴田勝家の墓」がある。お市の方の墓でもあり、大河ドラマによる観光ブームの中で、参拝者が多かった。
福井市つくも二丁目の総光寺に「丹羽長秀の墓」がある。こちらはそれほどの観光スポットではないようだ。
豊臣秀吉が「羽柴」と名乗ったのは、織田家の家中での先輩である「丹羽」「柴田」に敬意を表して一字ずついただいたことによるという。豊臣、柴田、丹羽の三武将のうち、近世大名として存続したのは丹羽家のみであり明治期には子爵に列せられた。それでも、全国的には秀吉、福井では勝家公の人気が高い。滅び去ったものを美しく見る日本人の心性がそうさせるのだろうか。
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