天正11年(1583)4月21日(陽暦6月11日)、賤ヶ岳の戦いにおいて、柴田勝家は羽柴秀吉に敗北し北ノ庄へ退却した。22日、柴田側についていた前田利家が秀吉に降伏した。23日、秀吉は北ノ庄に入り愛宕山を本陣とし総攻撃を行った。そして24日、勝家は北ノ庄城で妻のお市の方とともに自害し、九層といわれる天守閣は炎上した。羽柴秀吉、電光石火の追撃であった。
福井市足羽上町に「天魔ヶ池」がある。足羽山の山頂付近である。山の上にもかかわらず水が尽きることはないそうだ。
この足羽山は、北ノ庄城を攻める秀吉の本陣が置かれた愛宕山である。詳しいことが知りたいと思っていたら、親切なことに日刊福井らしき古い記事(昭和52年8月9日付)のコピーが掲示してあった。連載記事「足羽山」の第37回「天魔ヶ池」で、筆者は郷土史の著作が多い青園謙三郎氏である。次のようなエピソードを紹介されている。
私どもが少年のころは、まことしやかな伝説があり、先生が小学校で教えてくれたものだ。すなわち、秀吉が天魔ケ池の横で床几に腰をかけて北の庄を見下ろしていた。すると柴田勝家が秀吉めがけて矢を射た。剛弓によって放たれた矢は秀吉の胸元めがけて飛んでくる。横に加藤清正がひかえていたが、危い!というひまもない。床几に腰かけている秀吉をけとばした。秀吉は天魔ケ池へどぶん。しかし、危機一髪で命が助かったという。
一矢を報いる、とはこのことだ。また、『川角太閤記』によれば勝家の最期はこのような様子だった。(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『川角太閤記』(上)共同出版・巻之二)
半に殿主より焼上がり申候、後に城より出たる者申上候は、勝家迚も不叶とや被思つらん、右に如申上殿主へ鉄砲の薬を上させ、二重に詰おかれしが御前方其外かたつけ、勝家も自害せられ候哉、おきかきに火を入、右に被上置しが、腹を切り其火を懸けられたるよと見え、二重の鉄砲の薬にてはね候へば、殿主の引物ども四方八面にはね散らし、秀吉御陣取の愛宕山へは、城より十町程も御座候はん所に瓦などこくうにはねて来り候
北ノ庄城を攻めようとしているうちに、天守閣から火の手が上がった。後に城から出た者が言うことによれば、勝家はとてもかなわないと思ったのではないか、ということだ。天守閣へ鉄砲の火薬を運び上げ二重に詰め置いて、奥方やその他の者とともに勝家も自害なさったのである。火かきに炭火を入れ火薬の上に置き、腹を切って火をつけたのであろう、二重に置いた火薬が爆発し、天守閣にあった信長からの拝領品などが四方八方に吹き飛び、秀吉が陣取っていた愛宕山には、城から10町ほども離れているが、瓦などが宙を飛んできたのである。
北ノ庄城が爆発炎上し、ここ足羽山まで瓦が飛んできたとは凄まじい。いったいどのくらい距離があるのか、すぐ近くの自然史博物館から写真を写してみた。ところが、どこが北ノ庄城址かよく分からない。適当に写したら何とか入っていた。
これが秀吉の目線で見た風景である。今は大都市となった城下町福井、その礎を築いたのは柴田勝家である。猛将・柴田勝家が秀吉ごときに黙って敗れ去ることはない…。勝家を偲ぶそんな気持ちが、秀吉めがけて矢を飛ばし、瓦を飛ばしたのかもしれない。
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