グレース・ケリーという女優の映画はよく知らないが、彼女がモナコ大公妃となった華麗な経歴の持ち主だということは知っていた。グレースはGraceと表記するが、ラテン語ではGratia(グラティア)で「神の恩寵」を意味し、洗礼名ではガラシャとなる。どっから話を持ってくるんや、ではあるが、細川ガラシャの史跡を紹介したい。
大阪市中央区森ノ宮中央二丁目に「越中井(えっちゅうい)」がある。大阪府指定史跡である。
越中は富山県だが、ここではそういう意味ではない。まずは細川ガラシャ夫人顕彰頌徳会の記す説明板の一部を抜粋しよう。
ガラシャは細川越中守忠興公の夫人で熱心なキリシタン信者でありました。慶長五年(一六〇〇年)忠興公が徳川家康に従って会津上杉を征伐に出陣した留守中反家康の石田三成が大名妻子たちを大阪城中に人質にしようとしたがガラシャ夫人は聞き入れず石田三成に取囲まれぜひもなく家来に首を打たせ家屋敷に火を放ちいさぎよく火中に果てました。
この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから伝えられています。昭和九年(一九三四年)当時地元の越中町内会の人々相寄りガラシャ夫人の徳をしのび顕彰碑を建立したものです。
細川忠興の受領名が越中守であったことから、このあたりは越中町と呼ばれていた。井戸の名前もこの関係である。正面には「越中井 細川忠興夫人秀林院殉節之遺址」とある。徳富蘇峰の筆によるものだ。細川家は熊本藩主、徳富蘇峰は熊本県の著名な歴史家、そんなゆかりから揮毫したのだろう。
秀林院はガラシャの諡号である。諱(いみな)は「たま」で、父は明智光秀である。天正十五年(1587)に侍女の清原マリアから洗礼を受けた。清原マリアの出身は公家の舟橋家(明治に子爵)である。
この越中井があった屋敷で細川ガラシャは人質になることを拒否して死を選ぶのだが、その介錯をしたのは細川家家老の小笠原少斎であった。首をはねたのではなく、薙刀で胸を貫いたのだという。少斎も屋敷に火を放って自害した。小笠原家は熊本藩家老として明治に至る。
ここは節義を守る凛とした生き方を見せた細川ガラシャ最期の地である。「越中井」の標柱の側面には、あの有名な辞世が刻まれている。万葉歌のように書かれており、よく分かっていないのだが、次のように読める。
散利奴遍喜 時知り手古曽 世の中乃 花毛花奈連 人茂人奈禮
(散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ)
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