ふつう銅像は、キメのポーズだとか厳めしいとか、堂々としたイメージを抱かせるものだが、この銅像はどうだろう。人のよさそうな老人が杖を持って立っている。杖の頭に鳩が付いている。
福井市大手三丁目の中央公園に「岡田啓介像」がある。制作は雨田光平、題字は吉田茂(元首相)である。
岡田啓介は第31代内閣総理大臣である。この姿からは想像が難しいが、連合艦隊司令長官も務めた軍人である。犬養毅内閣が五・一五事件で倒れて政党政治が終焉し、齋藤実海軍大将、岡田啓介海軍大将と軍人の首相が続く。いかにも軍部独裁が始まったかのように見えるが、それは違う。
齋藤実も岡田啓介も海軍の良識を体現する人物である。今日の主人公、岡田啓介は海軍部内でロンドン海軍軍縮条約の取りまとめに奔走し、民政党の濱口内閣に協力して条約締結を実現する。軍備の拡張だけが国力を増強する手段でないことをよく知っていた。
戦後に読売新聞社の社長となる馬場恒吾は、『議会政治論』(中央公論社、昭8) の 「非常時人物評論」において、齋藤実内閣の海軍大臣をしていた岡田啓介を次のように評している。
統帥権擁護と云ふ立場から、海軍側で倫敦軍縮会議の結果に不満なる心情は諒解される。併し実際問題として、海軍又は陸軍の兵力を充実するには結局それに伴ふ費用を要することであり、其費用を決定するのは議会である。そして議会の形勢は政党の向背に依つて定まる。軍部が兵力に関して如何なる案を有してゐても、これを実現する予算が取れなければ其案は机上の空論たるに終る。政党が賛成し、議会が協賛することに依つて、軍部の案が始めて実現の可能性を得る。議会政治が廃棄せられて、軍部独裁政治にならば兎に角、議会政治が存在する間は、兵力を充実する費用は議会に依つて制限される。これは現在の制度では判り切つた事柄である。
岡田は此実際的な見方に立つて、議会政治の許す範囲内に於て、最も有力なる海軍を築き上げんとした。その為めに、濱口内閣と軍令部の調和をも計つた。それが為めに、かれは加藤軍令部長の思想の流れを酌む一派からはよく思はれなかつた。
此意識は当事者の間にも、世間一般にも未だ充分にハツキリと把握されてゐないであらうけれども、現在の日本の非常時と云ふことは、議会政治と独裁政治の思想の抗争から来ている。独裁政治的思想が優勢になるときは、非常時は益々非常時になる。議会政治の思想が優勢になれば、非常時は漸次清算される。岡田が日本の憲法を尊重し、議会政治の実際的必要を無視しない立場を取つてゐることは明かである。それ故に早く日本の非常時を清算したく思ふものに取つては、かれが海軍大臣として存在することが一つの希望を与へるものだ。従つて此非常時のデリケートな時局を清算する為に、かれを適任者として見るのである。
シビリアンコントロールとはこういうことだ。そんな岡田啓介に組閣の大命が降下したのは昭和9年7月のこと。民政党を与党とする挙国一致内閣が成立した。しかし、翌10年2月に天皇機関説問題が発生し、軍部や右翼に加えて野党政友会からの厳しい追及にあい、結果、岡田内閣は二度にわたって「国体明徴声明」を発して天皇機関説を否定することとなる。
さらに昭和11年1月には、手塩にかけて結んだロンドン海軍軍縮条約から脱退することとなる。軍部からの圧力など、次から次へと妥協を迫られた末の苦渋の選択だったに違いない。そして、あの2月26日を迎えることになる。
二・二六事件で蹶起部隊が第一の殺害目標に定めていた岡田首相は、押入れに隠れることで九死に一生を得る。先に引用した文中に登場する「加藤軍令部長」こと加藤寛治海軍大将は、この事件の折に昭和維新断行を協議するなど、心情的に蹶起部隊に近しい動きをした。
その後、太平洋戦争に突入し日本の敗色が濃くなっていく頃、岡田啓介は首相経験者として重臣に列していた。そして、強権的な東條英機首相との対決をも辞さない覚悟で、戦争の終結に向けて動いた。
昭和8年当時にジャーナリスト馬場恒吾が願った非常時の清算は叶わず、凄惨な戦争に突入していったが、それでも良識ある軍人は日本の平和のために行動していたことを忘れてはならない。