「菊水」といえば、‘ちょいと出ました私は’の「河内屋菊水丸」か「ふなぐち菊水一番しぼり」という酒缶に思えてならない。それでもやはり「菊水」は、大楠公をはじめ楠木一族の紋所であり、忠君愛国を象徴する紋様である。デザインとして流麗で気品がある。
豊中市走井一丁目の正光山浄行寺(しょうこうざんじょうぎょうじ)に「楠木正秀(くすのきまさひで)墓」がある。自然石のような墓碑だが、菊水紋があるので楠木一族だと知れる。
楠木正秀とは、正成-正儀-正秀との系譜を持つ反幕府方の武将である。どのような事績があるのか、『とよなか歴史・文化財ガイドブック』(豊中市教育委員会)で読んでみよう。
応永6年(1399)に楠木正秀は杉原氏を頼って走井に来たようですが、その経緯については2説あります。1つは、元中9年(明徳3・1392)に正秀の居城であった河内国金剛山城(千早城・千早赤坂村)が畠山基国率いる室町幕府軍によって落とされ、正秀は大和国(奈良県)十津川に隠れました。その後、応永6年に父祖の冥福を祈るため当地に来たとのことです。もう一つの説では、金剛山落城後、応永6年に起こった将軍足利義満と周防国(山口県)守護大内義弘の合戦(応永の乱)の際に正秀は大内軍に従軍しましたが、大内氏が敗戦し当地の杉原氏を頼ってきたとのことです。
2説に共通しているのは、正秀の拠っていた金剛山城が元中9年に落とされたこと、応永6年に杉原氏を頼ってこの地に来たということだ。争点は大内義弘による応永の乱に参加したかどうかである。早稲田大学の古典籍総合データベースで『応永記』を閲覧すると、「楠木二百余騎今迄ハ眼前ノ御敵ニテ今更降参申サンコト無益也トテ大和路ニカヽリテ行方不知落失ス」との記述が見つかる。この楠木が誰であったか。乱のあった堺から大和路方面に逃れたというが、その後、この地まで落ち延びたのか。
また、金剛山城(千早城)が正秀の居城であったというが、兄の正勝の城であったとするのが一般的だ。兄弟がともに行動していたのかもしれない。この頃から楠木一族も後南朝も系譜がよく分からなくなる。南朝方なら山深い十津川に隠棲していそうなものだが、正秀が摂津にやって来たのはなぜだろう。杉原氏という地侍を頼ったとも、父祖の冥福を祈るためだったともいうが、これ以上調べる手立てがない。
なんともしまりのない史跡報告となったが、敗者が歴史の彼方へ消え去る、とはこういうことなのだろう。それでも数百年後、皇国史観のもとで楠木一族は忠君愛国の名族として復活するのだが、今はまた静かに歴史的記憶と化している。
菊水丸は震災からの復興を願って、今年6月に「姫路から、がんばろう日本音頭」を姫路での公演で披露した。こちらの菊水も、じゅうぶん愛国的なようで。
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