皇后陛下は国母陛下とも呼ばれ、慈母、いつくしみ深い母親のイメージがある。今月11日には都内の美術館を訪れ、ねむの木学園の美術展を鑑賞された。どのような時も笑顔を絶やさず御公務に臨んでおられるのは、それが国民の励みになると願われてのことだ。申すも恐れ多いことである。
豊中市利倉一丁目のとくら春日神社の境内に「皇后塚」があり「正子塚」とも呼ばれている。
「皇后」であって、しかも御名が「正子」。このお方こそ、嵯峨天皇の皇女で淳和天皇の皇后であらせられる正子内親王なるぞ。と言われても、よく存じ上げないのが普通だろう。
簡単にプロフィールを紹介しよう。大同四年(810)に生まれ、天長四年(827)に淳和天皇の皇后に冊立された。『日本三代実録』は「后美姿顔、貞婉有礼度(后は姿顔美にして、貞婉礼度有り)」、つまりは「美しくてしとやかな人」と伝え、このようなエピソードを紹介している。
八年亢旱為災。帝深憂之、走幣群神、祈請百端。后勧帝、録囚徒廃作役。未及終朝、澍雨晦合。帝逾加愛焉云々。
八年亢旱(こうかん)災を為し、帝深く憂へ給ひ、幣(みてくち)を群神に走せて、祈請(きせい)百端(ひゃくたん)し給ふ。后、帝に勧めて、囚徒を録(ゆる)し作役(さくえき)を廃め給ひしに、未だ朝を終ふるに及ばざるに澍雨(じゅう)晦合(かいごう)しき。帝逾(いよいよ)愛(みめぐみ)を加へ給ひき。
天長八年(831)に大干ばつによる被害が発生した。天皇は深く嘆かれ、御幣を多くの神にささげて様々に祈った。皇后は天皇に勧めて、捕らえられた人々をゆるして労役をなくしたところ、政務の終わらないうちに空が暗くなって雨が降り始めた。天皇は后をますます寵愛なさったという。
正子の長男の恒貞親王は次代の仁明天皇のもとで皇太子とされるが、承和九年(842)、嵯峨上皇が没した直後に発生した「承和の変」により廃太子となった。藤原良房の陰謀ではないかと言われる事件である。
前出『三代実録』は「太后震怒、悲号怨母太后(太后震怒し、悲号して母太后を怨み給ひき)」と記して正子の怒りを伝えている。嵯峨天皇の皇后で正子の母でもある檀林皇后(橘嘉智子)が変に関与していたようで、正子は怒りに震え、泣いて母を恨んだということだ。晩年は孤児救済など福祉にも力を注ぎ、元慶三年(879)に亡くなった。
さて、この正子内親王の御分霊という「皇后塚」が春日神社にあるのはなぜだろうか。神社の由緒を記した石碑が境内にあるので読んでみよう。
第五十三代淳和天皇(八二三)の皇后正子内親王殿下は当社に病気平癒の御祈願あらせられた処難病が平癒され御殿料百石を御寄進されたのであります。
京都市右京区に西院春日神社があるが、ここは淳和天皇の離宮である淳和院(西院)の跡地であり、淳和天皇の皇女、崇子内親王の疱瘡を治したという霊石、疱瘡石があることから「病気平癒」の御利益があることで知られている。
とくら春日神社で正子内親王が祈願したのは、崇子内親王(母は橘船子)の病気平癒だったのか。淳和院別当という役職は歴代の源氏長者に継承されたが、その代表格が嵯峨源氏の久我家である。とくら春日神社には久我家とのつながりはないのか。
正子内親王は、美しくしとやかで知恵があり、修羅場をくぐりながらも長命を得た慈愛深い皇后陛下である。皇后塚を拝礼すれば、病気の平癒以上に御利益がありそうだ。
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