聖徳太子の肖像を見てありがたいと思うのは、かつての万円札の記憶のせいだと思う。今の諭吉さんより一回り大きく貨幣価値も高かった。そのありがたさは宗教的な法悦にも似ている。考えてみると浅薄な拝金信仰なのだが、そうではなく、真の太子信仰の史跡を紹介するのが今日の目的である。
大阪府南河内郡太子町大字太子の上之太子、磯長山叡福寺(しながさんえいふくじ)に宮内庁管理の「推古天皇皇太子聖徳太子磯長墓」がある。径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で横穴式石室があるという。写真に写るくくらいの雨粒の落ちるあいにくの天気だったが、おかげなことに寺務所の方の勧めで雨宿りができた。
叡福寺でいただいた縁起には、次のように書かれている。
境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古天皇二十九年(六二一)崩御の聖徳太子の生母穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)、翌年二月大和斑鳩宮において、時を同じくして、亡くなられた聖徳太子、同妃膳部大郎女(かしわでのおおいらつめ)の三人が一所に葬られているところから、三骨一廟とよばれ、この墓前には空海・親鸞・良忍・一遍・日蓮・証空び諸賢聖のほか、名僧知識の参籠が多く、現在も大使に会わんが為に善男善女の参詣が絶えることはない。
この記述は「法隆寺釈迦三尊像光背銘」をもとにしており、太子が推古30年(622)2月22日に、膳部大郎女はその前日に亡くなったのだという。ところが正史である『日本書紀』には、次のように記述されている。(小学館『新編日本古典文学全集』による)
二十九年の春二月の己丑の朔にして癸巳に、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨りましぬ。是の時に、諸王・諸臣と天下の百姓、悉に長老は愛児を失へるが如くして、塩酢の味、口に在れども嘗めず。少幼は父母を亡へるが如くして、哭き泣ちる声、行路に満てり。乃ち耕す夫は耜を止み、舂く女は杵せず。皆曰く、「日月輝を失ひ、天地既に崩れぬ。今より以後、誰をか恃まむ」といふ。
亡くなったのは推古29年(621)2月5日だという。2説に1年ものずれが生じているが、通説は前者の推古30年2月22日とされている。正史が国家の礎を築いた人物の没年を誤るのも変な話だ。
いずれにしても、『日本書紀』の記述から、死後百年にして太子は聖人視されていたことは確かだ。「太陽や月は輝きを失い、天地は崩れ去ってしまった。これから先、誰を頼りにすればよいというのか」人々の嘆きは最大級である。誠に失礼ながら、一昨年の暮れに近国の独裁者が亡くなった際の映像を思い出すほどだ。
そして現代においては、紙幣の顔として高度成長期の日本を支え、その役目を終えた後は故郷に戻って観光PRで活躍しているのだ。次の写真は道の駅「近つ飛鳥の里太子」にあった顔ハメである。4人家族で訪れるとちょうどよい。
その次は町役場にあったマンホールの蓋のカラーバージョンである。十七条憲法の一節が聖徳太子を象徴している。
聖徳太子はいなかった、との学説がある。確かに伝説に彩られているし、信仰の対象として神格化されている。何よりも正史の記述が頼りない。それでも、あれほどの国づくりを誰がしたというのか。他に名前が出てこないなら聖徳太子でよいし、厩戸皇子でもよい。やはり聖徳太子はありがたい。アベノミクスに聖徳太子一万円札復活予定はないのだろうか。
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