聖徳太子はいなかったと論じる向きがあるが、蘇我馬子がいたのは確かだろう。ならば、太子の業績とされていたのは馬子の事績ということになる。馬子にも衣装というが、どのような衣装を身に付けていたのだろうか。意味不明な話になってきたので、本論に入りたい。
大阪府南河内郡太子町大字太子に「蘇我馬子墓」がある。
まてよ、蘇我馬子の墓は、飛鳥の石舞台古墳ではなかったか。ずいぶん昔に訪れたことがあるが、あの巨石には驚いた。写真で見るよりずいぶん大きく見える。飛鳥時代最強の豪族の力量を見せつけているかのようだ。彼の墓がなぜ河内にあるのだろうか。
層塔の隣に地元の方が解説を書いているので読んでみよう。
この墳は古くから土地の人々によって、蘇我馬子の塚と言い伝えられております。しかし「建久四年古図」(西暦一一九三年)には妹子大臣塚(小野妹子)と記されており、真実は定かではありませんが、蘇我氏一族ゆかりの地に霊を祀る遺跡と思われます。間口五・四メートル奥行六・五メートルの中央にある椿の木は、樹齢三百五十年とも言われ、御神木であります。又、多層塔は高さ一・九メートルで、凝灰岩を六石積んで構成されておりますが、風化著しく、この度修復致しました。
小野妹子が登場したので話が混乱しそうだが、太子町立竹内街道歴史資料館『科長の里のむかしばなし』所収「太子に伝わる蘇我馬子の墓」によると、妹子塚は古図の模写時の誤りだという。そして、層塔は形式から見て鎌倉時代の造立ということだ。そのうえで、次のように指摘している。
この層塔を考える上で興味あるのは、鎌倉時代中頃に法隆寺の僧・顕真が著した『聖徳太子伝私記』に記されている次の記録です。
蘇我馬子廟桃源者 河内国科長東条石川也 御廟辰巳方也
当時、頂点に達していた聖徳太子信仰の聖典の一つとされた『聖徳太子伝私記』に見える“聖徳太子墓の辰巳(南東)の方に蘇我馬子廟がある”とされたこの記録によって、この層塔が建立された可能性の高いものと思われます。
太子町には最近連続してレポートしているように、飛鳥時代の人物ゆかりの地が 集中している。聖徳太子廟があるのに蘇我馬子ゆかりの史跡がないのは、水戸黄門に格さんが登場しないようなものだ。やはり、オールスターキャストがよろしいようで。
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