ひところ女帝論議がさかんであったが、悠仁親王殿下のご誕生により沙汰止みになった。民主党の野田内閣では女性宮家の創設が検討されていたが、政権交代により雲散霧消となりそうだ。復活から遠のいた女帝は日本史上8人10代存在するが、その最初の御方が推古天皇であらせられる。
大阪府南河内郡太子町大字山田に「推古天皇磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」がある。考古学上は「山田高塚古墳」と呼ばれている。
聖徳太子は推古天皇の摂政として…との説明のおかげで、よく知られた天皇である。母が蘇我氏であることから蘇我馬子とも良好な関係を保ち、治世は政治的に安定していた。
推古陵は東西約64m、南北約58mの方墳で、二つの石室があるということだ。実際、宮内庁の制札には推古天皇の御名と並んで「敏達天皇皇子竹田皇子墓」と記されている。この竹田皇子(たけだのみこ)は、敏達帝と推古帝の間に生まれた皇子で、皇位継承者として母帝から熱く期待されていたが、早世してしまったようだ。
『日本書紀』巻第二十二によれば、推古天皇は次のように遺詔したという。(小学館『新編日本古典文学全集』による)
比年(としごろ)、五穀登(みの)らず。百姓(はくせい)大きに飢う。其れ、朕(わ)が為に陵(みささぎ)を興(た)てて厚く葬(はぶ)ること勿(なか)れ。便(すなわ)ち竹田皇子の陵に葬るべし。
近年、穀物が実らず人々はひどい飢餓状態だ。私のために新たに陵を造って手厚く葬ることはせず、竹田皇子の陵に葬ってほしい。民草に負担をかけまいという大御心と我が子を思う母の愛情が表された遺言であった。
推古天皇陵の近くに「二子塚古墳」がある。
全長61m幅23mの古墳で、石室が二つある双方墳である。この古墳には次のような話がある。太子町立竹内街道歴史資料館発行『科長の里のむかしばなし』所収の「二子塚と“推古さん”」の一部である。二子塚から土を取ってへっついを造った若衆が物知りの甚兵衛さんと話をしている。
「実はな、この二子塚は大昔の偉い人の墓やねん。」
「えっ!わしら墓荒らししたんでっか。ほんで、その昔の偉い人て誰でんや。」
「さあそれやがな。初めて女で天皇にならはった推古さんかも知れんな。」
「そんなアホな。なんぼ物知り甚兵衛さん言うても、こら信じまへんで。推古さんの墓は向こにありまんがな。」
と、すぐ近くの推古天皇陵を指さしました。甚兵衛さんは
「そらそやけどな。本当はこの二子塚が推古さんの墓かも知れんのや。推古さんは亡くなる時、先になくなったはった息子の竹田皇子の墓へ一緒に葬るように遺言しゃはったんや。」
「なーんや。それやったら棺桶二つ要りまんがな。この中には一つしかおまへんで。二回もびっくりさして、甚兵衛さんも人が悪いわ。」
「びっくりさせた訳やないで。ちょっと見てみ。この塚には、すぐ西にも小山があって、二つ繋いだようになっとるやろ。」
「なるほど、あこにも棺桶があって、合わせて二つちゅうわけでっか。」
地元の言い伝えと宮内庁のお墨付きの二つの推古陵。どちらが本物か。共通項は二つの石室である。天皇陵は考古学上の調査が厳しく制限されているが、平成24年2月23日、用明陵と推古陵で特別な許可により研究者団体の立ち入り調査が行われた。朝日新聞デジタルニュースによると、日本考古学協会の茂木雅博・茨城大名誉教授は次のようにコメントしている。
「両古墳とも残りがとても良い。山田高塚古墳では推古天皇と竹田皇子とみられる石室のうち、東側の石室の一部が見えた。推古天皇陵で間違いないと感じた」
やはりここは宮内庁に軍配か。親子で安らかに眠っているのだから、厳重に管理されているほうがお望みかもしれない。