大河ドラマの視聴率がいつも話題になる。当の脚本家や演出家にとっては気が気でないだろう。「平清盛」は散々だといわれたが、よくぞあそこまで描いてくれたと私は感謝している。「八重の桜」も伸び悩んでいるという噂が聞こえてくるが、佐幕派の頑張りに期待しているところだ。
その昔、今の市川海老蔵が新之助時代にやった「武蔵MUSASHI」も視聴率がよくなかった。巌流島の決闘以外はそれほど知られてはおらず、苦しいのは当然だったろう。今回も宮本武蔵の、そんなこともあったんですか話である。
福山市丸の内一丁目の備後護国神社境内に「宮本武蔵腰掛石(武蔵瞑想石)」がある。
武蔵なら美作、播磨、肥後のあたりのイメージがあるが、備後とはどのような所縁があるのだろうか。石のうしろに説明板がある。読んでみよう。
宮本武蔵腰掛石の由来
元和元年(一六一五)大阪夏の陣において、武蔵は、三河刈谷三万石城主水野日向守勝成の陣に属し参陣する。寛永年中(一六二四~一六二九)武蔵は福山城に勝成を訪う。武蔵の養子三木之助は水野家中、中川志摩之助の三男なり。水野家二番家老中山将監は、大阪陣中におけるよしみにより、武蔵を自邸において饗応。その時、武蔵が将監屋敷庭園の庭石に腰を掛けたのが、武蔵腰掛石として伝承されていた。
水野氏断絶改易となり、阿部氏入封、それ以後将監屋敷は、阿部家第二家老下宮氏の屋敷となる。明治四年廃藩後、下宮氏はこの屋敷を引払うにあたり、この石の由緒によりこれを阿部神社に寄進したものである。
原文・平井隆夫 鷹の羽会
子どものころに、武蔵の伝記を買ってもらっていた。13歳で有馬喜兵衛に勝って以来、29歳の巌流島に至るまで、数々の他流試合に心躍らせながら、繰り返し読んだものだ。関ヶ原の役や大阪の陣にも参加するが、大勢の中の一人では武蔵の魅力は発揮されない。
播磨地方の郷土雑誌『BANCUL』はこれまで2回、宮本武蔵を特集に組んだ。2000冬号の年表によると、武蔵は大坂冬の陣では西軍に加わったが、夏の陣では東軍の水野勝成の配下となって戦ったようだ。養子とした三木之助の出自については、2003冬号に次のように記されている。
武蔵の最初の養子である造酒之助は、備後福山城主・水野勝成の家臣、中川志摩之助の息子であったといわれている。しかし「新免家系図」には、新免伊賀守宗貫の孫で、武蔵とは従兄弟にあたる三喜之助貞秀という人物が記されており、彼が造酒之助ではないかという説もある。また『丹治峰均筆記』では、造酒之助は貧しい馬子で、修行のために諸国を廻っていた武蔵が尼崎付近で出会ったとしているが、あくまで創作・伝説のようで信憑性はない。
三木之助以前に、宮本武蔵の出自が美作、播磨と意見が分かれている。美作説に立つと武蔵と従兄弟という関係がそれらしく思える。しかし、戦いを共にし気持ちが通じ合うようになった水野家中から養子を得たというのもありそうなことだ。
養子の三木之助は、寛永三年(1626)に23歳の若さで、主君の本多忠刻の死に殉じた。武者修行で各地を廻っていた武蔵が、三木之助の死を耳にしてから福山に立寄り、水野家二番家老の家で饗応され、昔を偲んだというところだろうか。庭石に腰かけて、もののふの道とは何かを求めて瞑想していたのかもしれない。
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