講談を生で聞いたことがないが、張り扇で釈台を調子よく叩いて、見てきたような嘘をつくらしい。嘘であろうが、本当のように聞こえて面白ければ、聞く価値があるというものだ。赤穂義士を扱った演目も多いが、その中に『神崎の詫証文』というのがある。今日は四十七士の一人、神崎与五郎則休の話である。
相生市那波本町に「神崎与五郎孝行井戸」がある。
井戸の向こうにある説明板には次のように記されている。
赤穂義士の四十七士の一人 神崎与五郎は岡山県人で赤穂藩の一人でありました。役柄(御徒士目付おかちめつけ)といっても全義士中後ろから3番目の貧乏侍であったそうです。しかし神崎与五郎は藩中きっての孝行侍と知られていました。そして、度々御膳にて主君と共に吟句を楽しむなど特別な待遇であったそうです。神崎与五郎は那波(現在の「井戸」の入口左角 潮見邸あたり)に役宅を与えられ、母と二人慎ましく暮らしていました。ある日その母が目の不治の病にかかり、常に孝道に心掛けていた神崎与五郎は 那波浦荒神山の國光稲荷社の籠堂に、毎日無心で祈願していました。そして七日目の夜更に突如 御神殿の内より扉を押し開く音すると若い美女が手に三光の玉をもってあらわれ、そのうしろに天童一人が稲穂を持ち出現し玉光は月夜のごとくあたりを照らし、「大神は神崎与五郎の孝心を見て 天下台よりさし昇る、ご来光の光線を口に戴き、赤松の葉をかみしめ、井戸水で目を洗え、塩水をのませよ・・・されば苦悩去らん」とお告げがあり早速下山しお告げのごとく行なうと、母の目の不治の病が治ったという伝説であります。
『目を洗うために使った 水がこの井戸水』
神崎与五郎孝行の井戸保存会
神崎与五郎はもと美作津山藩主・森家に仕えていたが、元禄10年(1697)の森家改易に伴って、赤穂藩主・浅野家に仕官した。刃傷事件が元禄14年(1701)だから、短い期間の奉公ではあったが、孝行侍そして俳句の上手さで藩主の覚えが目出度かったのだろう。
『神崎の詫証文』では、与五郎が江戸へ下る途中、無礼な目に遭おうとも、主君への忠節のためには「ならぬ堪忍するが堪忍」と耐え忍ぶ姿が描かれた。その場面を強引に要約するとこうなる。
丑五郎 「お侍さん、馬に乗ってかねえかい」
与五郎 「いや乗らぬ。わしは馬が嫌いじゃ」
丑五郎 「は? 侍が馬に乗らんで、つとまるわけねえだろ」
与五郎 「とにかく、こらえてくれ。このとおりだ」
丑五郎 「あやまるってーのか。じゃ、詫び証文を書いてもらおうじゃねえか」
与五郎 「あいわかった。これでよいか」
丑五郎 「なんだ、こりゃ。おれが読めるように書きやがれ」
与五郎 「ならば、かなで書こう」
丑五郎 「かんざげ、よかろう、のりがやすい、だと? おれが冷酒ばっか飲んでると思ってバカにしてんのか」
与五郎 「それはわしの名、神崎与五郎則休じゃ」
面白い話であるが、「かんざきよごろうのりやす」という音から発想して作られたのだろう。史実ではないにしても、与五郎はどのような思いで江戸に下ったのだろうか。人それぞれにかけがえのない人生があるのは、与五郎とて同じである。
主君への思い、母への思い。忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば…。ここ那波で母と暮らした時期が一番幸せだったに違いない。
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