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読売新聞岐阜板が4月9日付けで伝えたところによると、岐阜市教育委員会は8日、戦国時代の戦死者の墓「織田塚」を市史跡に指定した。岐阜市といえば、駅前に黄金の織田信長像が立っている。また、信長ではなく「信長公」と敬称を付けるのが通例のようだ。「織田塚」は、信長公と、どのようなゆかりがあるのだろうか。
岐阜市霞町に「織田塚」がある。
見るからに古そうな石塔がビルの谷間で戦国時代を語っている。行き届いた清掃と供花によって、地元の方が大切になさってきたことが知れる。どのような由緒のある塚だろうか。説明板を読んでみよう。
織田塚伝
一五三三年天文三年九月二十二日
織田與次郎信康(犬山城主)法名白巌(織田信長の叔父)
織田因幡守(岩倉城主)
青山与右衛門
毛利十郎
寺沢又八
道三の采配よろしきをえて落城しなかった。
信秀は兵のつかれを休めるため、九月二十二日夕刻、上加納方面に兵力を集結した。夕刻から稲葉山を降りた道三軍は、隠密裡に上加納方面に向い、織田軍を包囲し、月の出を合図に織田軍へ総攻撃をかけた。不意をつかれた織田軍は右往左往するのみで収拾がつかず、戦う者、逃げる者、銘々勝手な行動をとり、惨敗して尾張に逃げ帰った。この戦いで織田方は織田因幡守(岩倉城主)、織田信康(犬山城主)ら多数の宿将を失った。
上加納の百姓たちは、一千人に余る戦死者を埋葬し、土を饅頭型に盛りあげた。この塚を物見塚とよんでいたが、後日、織田塚と呼ぶようになった。
織田信長の事績はドラマによく登場するので、桶狭間の戦いを初め、対戦相手、勝敗など知っていることが多いのだが、信長以前の織田家の戦いは説明されてもよく分からない。
それでも、ざっくり捉えると、こういうことになろう。斎藤道三の勢力はこの頃、飛ぶ鳥を落とす勢いで美濃国を席捲していた。追放された守護・土岐頼芸を擁した織田信秀(信長の父)は、道三の下剋上を阻むべく稲葉山城を攻撃したのである。しかし、上記説明にあるとおり、逆に虚をつかれた信秀の軍勢が惨敗し、多くの戦死者を出したということだ。
岐阜市神田町六丁目の円徳寺境内に「伝織田塚改葬地」がある。こちらは昭和32年には市史跡に指定されている。
どちらも「織田塚」だが、こちらは「改葬地」。いったい、どのような謂れがあるのだろうか。やはり説明板を読んでみよう。
天文十六年(一五四七)夏、織田信秀軍の蜂須賀など江南勢は関方面に進出し、土岐二郎(土岐頼芸の子か、あるいは先代守護二郎の子か)は席田あたりまで侵入したが、斎藤利政(この頃出家して道三と称す)はこれを撃退した。
織田塚は、この時上加納で敗死した織田軍の将兵の屍を集めたものといわれる。
織田塚の域内に浄泉坊(現円徳寺)があり、永禄年間に円徳寺が織田塚の西方三〇〇mの現在地に移転するに伴い、塚は次第に荒廃したといわれる。
寺伝では、安永五年(一七七六)、安八郡神戸村善学院僧金龍が、織田塚を円徳寺境内に転葬し、塚上に碑を建てたと伝えられる。
二つの「織田塚」は、織田信秀対斎藤道三、上加納で織田軍が多数の死傷者を出したことが共通している。しかし、年代が大きく異なる。調べてみると1547年の加納口の戦いとするのが通説のようだ。この時戦死した織田信康は国宝犬山城の築城者として有名である。
織田信秀自身は生きながらえたが、2年後には斎藤道三と和睦し、それぞれの子である信長と濃姫が結婚することとなった。この婚姻こそ信長の勢力伸長に大いに影響していくわけだ。
加納口の戦いで仮に織田信秀もが倒されていたなら、その後の歴史も大きく変わったかもしれない。逆に斎藤道三が倒されていたとしても、戦国の混乱が長引いたかもしれない。織田信長が近世という時代を切り開くこととなったのは、この戦いで斎藤道三が勝利し、織田信秀が生き残ったおかげだったのである。
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