ほんの子どもの頃に百円札というのがあった。珍しいから仕舞っておいた。大人になってからのことだが、デパートの古銭市で百円札のピン札を百円玉と交換してくれるというので開店と同時に店に駆け込んだ。
その百円札の髭の爺さんが板垣退助である。板垣といえば「板垣死すとも…」と叫んだことが大変に印象深い。暴漢にやられた髭の爺さんが残る力を振り絞って吐いた名句だと思っていた。同じく髭の爺さん田中正造が明治天皇の車列に直訴したような劇的な場面である。
岐阜市千畳敷下に「自由党総理板垣退助君遭難地」の碑が建っている。聴衆の歓声に応えるかのように右手を挙げる銅像もある。
政治の主義主張とは無縁な平和な公園の一角である。あの有名な歴史の名場面の場所がここであったか。まずは岐阜市が設置する説明板を読んでみよう。
板垣退助遭難の地
明治十五年四月六日午後一時、時の自由党総理板垣退助が中教院にて演説を行う参会者百余名夕刻板垣総理すべてを終え玄関から数歩出るや「国賊」と叫んで相原尚褧(しょうけい)が総理の胸を刺す。総理「板垣死すとも自由は死せず」と有名な言葉を残したのである。即ち板垣総理遭難の地である。
そして「昭和60年NHK大河ドラマ『春の波涛』ゆかりの地」との表示がある。この時、板垣を演じたのは米倉斉加年であった。今の大河『八重の桜』にも板垣は登場し、加藤雅也が演じている。もうしばらくすると戊辰戦争となり、会津・鶴ヶ城を舞台に銃撃戦が繰り広げられるはずだ。今年の大河の一番の見せ場で、スペンサー銃を手に勇猛に戦う八重を見ることができる。その八重の敵である新政府軍を率いていたのが板垣退助であった。
それから14年、自由民権運動の旗手となった板垣が岐阜で遭難する。時代は今では考えられない速さで進んでいた。事件発生は明治15年(1882)4月6日午後6時過ぎのことである。犯人相原が叫んだのは「将来ノ賊」だともいう。
犯行に使われた短刀は現在、高知市立自由民権記念館が所蔵している。以前に広島県立歴史博物館に貸し出された際(H9「医師・窪田次郎の自由民権運動」)に見たことがある。
犯人相原は無期徒刑の判決を受け北海道で服役していたが、明治22年の大赦で出獄した。そして、東京に出て板垣を訪ね謝罪をした。これに対して板垣は次のように答えたという。(岩田徳義『板垣伯岐阜遭難録』麻布学館、大10)
是れ固より私怨に生ぜしにあらずして、国家観念より起りたることなれば、敢て咎むべきにあらず。併しながら、箇程の事を企るとならば、篤と我党の主義精神及行動の如何を取調べありたらんには、恐らくは斯の如き過ちなからんに、事の此に出でざりしは太だ遺憾なり。去りながら猶此上とても、万一板垣の行為にして国家に害ありと認められたならば、再び傷つけらるゝも敢て苦しからず。
相原は平身低頭するばかりであった。改心した元テロリストは故郷の愛知県に戻ったものの、その最期はよく分からない。尋常な死ではなかったようである。
一方、板垣が叫んだという「板垣死すとも自由は死せず」という名台詞も、誰がどのように表現したのか諸説あって真相はよく分からない。ただ言えることは、この台詞が当てはまる状況があったということだ。現場においては殺人未遂、時代は自由民権運動の高揚期。自由という高邁な理念は一人の運動家の死をも乗り越えて受け継がれていく。自由の価値の尊さに気付かせてくれた名言であった。
私が勘違いをしていたのは遭難時の板垣の年齢で、当時45歳であった。土佐の竹内流小具足組打術で鍛えた武芸は遭難時にも役立ったらしく、事件後に師匠から皆伝免状をもらっている。私の印象にある白髭の老人ではなかった。
さて、時は経て大正7年(1918)4月21日、事件現場の岐阜公園に板垣退助は再び立っていた。当時81歳、立派な白髭をたくわえていた。この日、板垣退助の銅像の除幕式が行われたのである。
当時の写真を見ると少しポーズが異なっていることが分かる。右手を下ろしているのが旧像で、新像は右手を上げている。旧像は昭和18年に金属供出で撤去され、昭和25年に再建されたのが現在の像(作・柴田佳石)である。台座は当時のままのようだ。
岐阜公園のこの一角は、殺人未遂事件の現場跡である。板垣はまもなく回復し日本近代史を動かす政治家として活躍していく。事件の影響は無かったかのように見えるが、そうではない。彼とともに語り伝えられる「板垣死すとも自由は死せず」の名台詞は、自由民権運動の精神的象徴として記憶されることとなった。近代日本史に欠かすことのできない史跡である。
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