大名庭園は日本の代表的風景である。自然の美しさを凝縮した景観を歩いて巡る回遊式庭園は、天下泰平を謳歌した近世大名の富の象徴である。ここに遊ぶ贅沢が、今では庶民に開放されていることに思いを致すだけでも、平和と民主主義の息吹が感じとることができる。
広島市中区上幟町に中国地方を代表する大名庭園「縮景園(しゅっけいえん)」がある。写真は「跨虹橋(ここうきょう)」である。
園の名称は、まさに景勝を集めて縮めて表現したことによるとも、中国杭州の西湖をスケールを縮めて模したからとも言われている。中国有数の観光地で世界遺産である西湖。知らないから似ているかどうかも分からない。だが西湖を詳しく調べてみると、「春宵一刻値千金(しゅんしょういっこくあたいせんきん)」の蘇東坡(そとうば)が築いた蘇堤(そてい)に「跨虹橋」があった。やはり西湖を意識しているのだろう。
縮景園の跨虹橋は、広島藩第七代の浅野重晟(あさのしげあきら)が京都の名工に二度も築きなおさせたものと言われている。縮景園を代表する景勝で、現代にも通用するスタイリッシュなデザインである。実は、この名橋はあの原子爆弾をくぐり抜けるという試練を経てきた。
園内の説明板に原爆直後の写真(昭和20年9月、松本栄一氏撮影)が紹介されていた。確かに跨虹橋の美しい姿が見える。ここは爆心地から約1.22~1.46kmだそうだ。説明文も読んでみよう。
この庭園は、1620(元和6)年、広島藩主浅野家の家老上田宗箇(そうこ)により藩主の別邸として設けられました。戦前は市民に「泉邸(せんてい)」の名称で親しまれていましたが、人類史上最初の原爆投下により、このように無残な姿となりました。被爆直後、数多くの被災者がここに避難してきましたが、治療もほとんど受けることができないまま息絶え、その遺体は園内に埋葬されました。
今は平和で「死」とは無縁な景観の縮景園だが、かつてはヒロシマの惨状がそこにあったのだ。過去に学ぶ者にこそ、未来を創る資格がある。浅野氏の大名庭園は、平和について考える場所であった。
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