2008年まで「朝日舞台芸術賞」(朝日新聞社)という舞台作品の成果を顕彰するアウォードがあった。2001年の第1回グランプリに輝いたのは「野田版 研辰(とぎたつ)の討たれ」であった。先年亡くなった中村勘三郎(受賞当時は勘九郎)主演の、平成歌舞伎を代表する傑作である。
香川県綾歌郡綾川町羽床下(はゆかしも)に「羽床辰蔵之墓」がある。研辰のお墓である。
歌舞伎の舞台においては、研辰こと守山辰次の調子の良さが、勘九郎の名演技によって見事に表現されている。散る紅葉と人生を重ねる場面も生の根源を問いかけているようで見ごたえがある。
しかし、その素材となった羽床辰蔵の事件は、もっと悲惨なものだったようだ。まずは、地元の歴史に詳しい『綾南町誌』を読んでみよう。
讃岐三大仇討ちの一つ「研辰の討たれ」についてはいくつかの伝承があるが、羽床長利の辺りでは次のように伝えられている。
百七十余年の昔、文政年間のことである。辰蔵は幼名を与之助といい、「巨眼辰」と呼ばれるほど目が大きく、体も豊かで常に殺気を帯ぴていた。やや長じて羽床の土地を離れ、近江の国で刀磨師某について修業すること数年。その秘術を極め、その後、近江琵琶湖畔膳所(大津市)の城下で刀磨師として生計をたてるようになった。
恋女房枝茂(しも)を得て数年を過ごしたが、その後、辰蔵はだんだん酒に乱れ、妻にも暴行を加えるようになった。
そのころ、膳所藩主本多下総守に仕える平井市郎次という刀剣を愛する武士がいて、枝茂に横恋慕し、辰蔵の留守をみては交わりを重ねるようになった。妻の枝茂は深く己れを恥じ、自ら落飾して尼寺に入り仏に仕える身となった。
「妻を寝とられて恥を知らず、何の面目あって人に接するぞ」との友人の言に激怒した辰蔵は、おっとり刀で尼寺に駆け入り、妻を誘い出して刺し殺し、さらに、市郎次方へ急ぎ、市郎次を後ろより一撃して両断し死にいたらしめた。市郎次の弟九市が辰蔵を追ったがその行方はようとしてわからなかった。九市は弟の外記と共に辰蔵を討つべく旅に出た。近江、丹波を経て辰蔵の郷里讃岐に渡り、さらに、伊予、土佐を経て阿波に渡ったが手掛かりはつかめなかった。京都に出て虚無僧姿となり、辰蔵の存否を問うて旅を続けた。再び讃岐に渡ったが得るところはなかった。たまたま備中笠岡で知り合った虚無僧(元武士)と意気投合、三人同行で西の九州に行き、伊予今治に帰ってきた。その夜、「東へ行け」と夢のお告げがあった。
三度讃岐に渡った。羽床の里に辰蔵をつきとめ計画を練った。
辰蔵の家では近隣の者が多数集まってお客をしていた。翌日行ってみると辰蔵がひとり裸で刀を研いでいた。九市・外記の兄弟は前より侵入、連れの雲水は裏口にまわった。辰蔵は衣類をつけるまもなく、壁の刀を取って立ち向かったが、刀の目釘をはずしていたので、刀は空に飛んで柄だけが手に残った。裏口に逃げようとしたところを雲水につかまり、二人の兄弟に切られた。時に辰蔵年三八歳。平井兄弟が辰蔵を討つべく旅に出かけて三年と九か月の歳月を経ていた。
辰蔵の無残な最期の姿や、母親お仲が常に辰蔵の身を案じていたようすなど語りつがれている。
讃岐三大仇討とは羽床の研辰、丸亀の田宮坊太郎、観音寺の白縫(しらぬい)のことである。3つのうちで比較的史実に近いのは研辰のようだ。近くの羽床小学校の子どもたちが事件の概要を分かりやすく絵にしてくれている。
『綾南町誌』に「辰蔵の無残な最期の姿」が語り継がれているとあるが、小学生の絵を見ると、その内容を知ることができる。4コマ目に「七か所も切られた」とあり、切られた部位が示されている。
長い話から4場面を選んで絵にして伝えるというのは、簡単なことではない。全体像を理解してから話を要約して、トピックとなる場面を抽出して絵にしていったのだろう。話を要約する力はコミュニケーションにおいてとても大切なことだ。素晴らしい取組みをされた羽床小学校の子どもたちと指導された先生方に敬意を表したい。
「野田版 研辰の討たれ」でも、仇を討つ平井兄弟は憧れの的である。そのシーンの前に辰次が自分は仇を追っていると騙った時にも「守山殿」と皆から尊敬されていた。仇討の物語は仇を討つ者がヒーローのはずだ。
しかし研辰においては、討たれる者の心情に切り込んだ。「生きてえなぁ」と呟きながら自分を斬ることとなる刀を辰次は研ぐ。そんな不条理も人間の真実なのだろう。人生について考えさせられる辰蔵の墓である。
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