「日本三名橋」は江戸の日本橋、長崎の眼鏡橋、そして岩国の錦帯橋だという(『雑学・日本なんでも三大ランキング』講談社+α文庫)。日本橋は見る影もないが、眼鏡橋は絵になる。錦帯橋はさらに壮観だ。
『旅の科学』(松川二郎、有精堂書店、大14)という今でも売れそうな内容の面白い本が、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで閲覧できる。その本の中に「三奇橋」という項目があり、山梨県桂川の猿橋、富山県黒部川の愛本橋、そして山口県錦川の錦帯橋が紹介されている。このうち愛本橋は今は古写真でしか見ることができない。
三名橋にして三奇橋、まさに天下第一の橋、それが錦帯橋である。昭和25年に毎日新聞社が選定した「新日本観光地百選」では建造物部門で首位となっている。
岩国市を流れる山口県第一の大河、錦川に「錦帯橋」が架かっている。国指定の名勝である。
錦帯橋は第3代吉川広嘉(きっかわひろよし)によって延宝元年(1673)に架橋された。翌年に一度流され再び架橋、この橋は昭和25年9月14日のキジア台風による洪水で流失するまで276年間の不落を誇った。「新日本観光地百選」の部門首位となったのは、流失後間もない10月10日であった。
先に紹介した『旅の科学』では、次のように紹介されている。
此の巧妙な設計が、全く当代の岩国藩主吉川広嘉の考案に成ったと聞いては、殿様芸も時に莫迦にできず、工学博士の学位を贈ってもよかろうと思うのです。此の架橋工事は僅か三ヶ月で竣工しています。一名をそろばん橋と云う所以は、橋普請のとき山北より石材を運び出すに、大きな石が多くて引き離すに困難した、すると殿様は『引てぬ引かれ帰一倍の一』という算法の理を応用することを教えた所から起ったと云います、兎に角数理に明るかった殿様です。
「帰一倍一」とは珠算の割り算での用語だが、そこまで数理的な話ではなく、橋を下から見上げると「そろばん」のように見えた、ということではないのだろうか。
吉香公園に理数系殿様(?)吉川広嘉の銅像がある。左奥に写っているのが「錦帯橋記」で、「弘化二年乙巳春三月 玉惇成撰」とある。玉乃九華(たまのきゅうか)という岩国を代表する儒者による撰文である。
錦帯橋が不落だったことから、次のような伝説が生まれた。日本の伝説35『山口の伝説』(角川書店)には、次のような伝説が紹介されている。
架橋は難工事で、当時の習わしから人柱が考えられた。このとき、「袴(はかま)に横つぎある者を」との提案に、調べると、いいだした本人に横つぎがあった。この男には娘ふたりがいたが、親思いの姉妹は父の身代わりを願い、白装束の身を橋台に沈めたという。その後、橋下の清流から人の形に似た小石がみつかるようになったが、悲しい姉妹の最期にちなんで土地ではこれを人形石とよび、最近まで岩国土産の一つになっていた。
そこで、川原に降りて探してみると、本当に人形石が見つかった。
この石、実はニンギョウトビケラの幼虫が小石を集めて作った巣である。それが不思議に人形に見えるところが面白い。「最近まで岩国土産の一つになっていた」と過去表現となっているが、今は岩国石人形ミニ資料館でお土産として売られている。資料館でいただいた説明書では、次の記述が注目される。
自然物が郷土玩具になった例として、鹿児島の鈴懸け馬、北海道の十勝ダルマと共に日本三大珍品玩具と称されています。
鈴懸け馬は飾り立てた馬、十勝ダルマは黒曜石に刻んだダルマである。三大珍品玩具としてまとまるのか疑問だが、人形石(石人形)が珍しいものには間違いない。錦帯橋と虫の巣、何の関係もない人工物と自然物を伝説が結び付けていた。
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