「仏教伝来ごさんぱい(538)」「いごよく(1549)伝わるキリスト教」と、宗教の伝来は文化史上の画期となるので覚えておくと何かと便利である。ただし、538年を仏教公伝としているのは『上宮聖徳法王帝説』であり、正史である『日本書紀』は552年としている。今のところ、決め手はない。
桜井市大字金屋に「仏教伝来之地」の碑がある。
この碑の畔を流れるのは初瀬川(はせがわ)。上流に初瀬(はせ)という地名があり、長谷寺(はせでら)がある。古くは「はつせがわ」と読み「泊瀬川」とも書いた。歌枕としても知られている。
この川の水は大和川の流れとなって大阪湾に注いでいる。逆に言えば、大阪湾からここまで舟で進入できたということだ。碑の近くにある説明板を読んでみよう。制作は日本文化の源流桜井を展く会という誇り高い名称の団体である。
この付近は、難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。
「欽明天皇の十三年冬十月、百済の聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。
この場所は、仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地であります。
初瀬川は今よりも水量があって、外国使節を乗せた船がここに着いていた。608年の隋使・裴世清もそうだ。この50年以上も前の欽明天皇13年(552)年、百済から達率(たつそつ)という高位にある姫氏(きし)の怒唎斯致契(ぬりしちけい)が金銅仏や仏具、経典を携えてやってきた。磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)は欽明天皇の宮である。
552年に伝来した仏像は阿弥陀如来で、排仏派の物部氏が難波の堀江に投げ捨てたが、信濃の国の本田善光が拾い上げ、背負って信濃に請来したと信濃善光寺の縁起では伝えられている。ところが、上記のように『日本書紀』では「釈迦仏」となっている。
上の写真では左に歌碑がある。次のように刻んでいる。
夕さらば かはず鳴くなる 三輪川の 清き瀬の音を 聞かくし良しも
(『万葉集』10-2222、読人不知)
ところが、隣の説明板で、「暮不去」を「夕さらば」と刻んでいるが「夕さらず」の訓みが普通だとしている。夕方になるとカジカガエルの鳴く三輪川。この川の清い瀬音は気持ちいいよね。二種類の心地よい音が聞こえる秀歌だ。
三輪川は三輪山の近くを流れる初瀬川のことである。三輪山は大神神社の御神体である。神様の山の麓を流れる川に仏様が上陸された。神と仏が出会ったことで日本独自の文化が生じたと考えるなら、この地はまさに「日本文化の源流」の地である。
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