源平藤橘とは日本を代表する本姓である。本姓とはもともとの氏ということで、ご先祖様が何氏だったかを表している。徳川家康は源家康、織田信長は平信長、伊達政宗は藤原政宗、楠木正成は橘正成のように正式文書などに表現することがあった。
しかし、四大氏姓のうち橘氏はどうもパッとしない。源氏平氏を名乗る武将は多い。家康にしろ信長にしろ自称だから信用ならないが、人気があるということは確かだ。藤原氏も魚名流の武将は多い。しかし橘氏を名乗る大名はほとんど聞かない。
先細りになってしまった橘氏もその祖は偉大であった。正一位井手左大臣橘諸兄公その人である。しかも正一位は生前叙位、日本史上6人(藤原宮子、橘諸兄、藤原仲麻呂、藤原永手、源方子、三条実美)のみの栄誉である。
京都府綴喜郡井手町大字井手小字南開に「井手左大臣 橘諸兄公旧趾」と刻まれた大きな石碑がある。
同じ場所に「橘諸兄公供養塔」もある。古いものではない。だが、ここは北王塚という古墳らしい。
橘諸兄は、聖武天皇の御代に藤原四兄弟の死後から藤原仲麻呂に追われるまでの十数年間、政権を担っていた。天平21年(749)4月1日、聖武天皇は東大寺に行幸し建設途中の大仏に相対した。この時、天皇に代わって「三宝(みほとけ)の奴(やっこ)と仕え奉れる天皇」と宣命を読み上げた人物こそ橘諸兄であった。
青丹よし奈良の都で活躍した橘諸兄が、なぜこのように離れた場所に葬られているのか。
町内に「井堤寺(いででら)跡」という古い寺院跡があるが、これは橘諸兄が母・三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺と伝えられている。三千代が薨じたのが天平5年(733)で、諸兄が右大臣として政務を採るようになったのが天平10年(738)だから、この地と諸兄とのゆかりは若い時期からあるようだ。また、父の美努王(みぬおう)も井出の地を愛したというから、一族の本拠地だったのだろう。
『続日本紀』巻第13に次の記事が見える。
天平12年(740)5月10日条
天皇、右大臣の相楽別業(さがらかのべつぎょう)に幸す。宴飲酣暢。大臣の男无位奈良麻呂に従五位下を授けたまふ。
同年12月14日条
禾津(あはづ)より発し、山背(やましろ)国相楽(さがらか)郡玉井頓宮(たまのいのとんぐう)に到りたまふ。
同年同月15日条
皇帝、前に在りて恭仁宮に幸す。始めて京都(みやこ)を作らしむ。
相楽別業は井出町内にあった橘諸兄の別荘である。この地で聖武天皇はしっかり飲んで諸兄の息子・奈良麻呂に位を授けている。玉井頓宮は井出町内の「六角井戸」が名残だと伝えられる。そして新都・恭仁京も木津川の水運を利用すれば近い。橘氏の都が実現するかに思えた。
しかし、政治は常に権力闘争である。光明皇后と藤原仲麻呂が藤原氏の復権に乗り出してくる。そして、『続日本紀』巻第20の記事である。
天平宝字元年(757)6月28日条
是より先、去る勝宝七歳冬十一月に太上天皇みやまひしたまふ。時に左大臣橘朝臣諸兄の祗承(しそう)の人、佐味宮守(さみやのみやもり)告げていはく。大臣、飲酒(おんじゅ)の庭にして、言辞礼无し、稍(やや)反状有りと云々。太上天皇、優容にして咎めたまはず。大臣、之を知りて、後歳、致仕(ちし)す。
天平勝宝七歳(755)11月に、橘諸兄は「謀反の意あり」との家人から密告された。聖武上皇は咎めなかったものの、諸兄は翌年、辞職し引退した。そしてその翌年、天平勝宝九歳(757)に亡くなった。おそらくは、失意のうちに、と形容される最晩年だったろう。
密告者の佐味宮守は藤原仲麻呂に取り入って、従八位上から一挙に従五位下に昇進し越前介に補任されたという。いつの時代にもこういう輩はいるものだ。
橘諸兄の別荘で酔ってご機嫌の聖武天皇から叙位された奈良麻呂は、父の死後、藤原仲麻呂を除こうと画策する。しかし、これも密告によって露見し奈良麻呂は捕縛される。ほどなく獄死したのだろうという。
こうした事実を踏まえて、橘諸兄公の墳墓にお参りすると、鎮魂の祈りが一層深くなる。歴代天皇のうちでも評価が高い聖武天皇を支えた有能な大臣は、六玉川(むたまがわ)の一つが流れる美しい井出の里に、天皇との思い出を抱いて眠っているのだ。
ナカナカさま
ご子孫の方のお目に留まり、光栄に存じます。
一時代を牽引した諸兄公の事績が再評価されることを願っております。
投稿情報: 玉山 | 2019/08/18 20:05
私も子孫らしい
投稿情報: ナカナカ | 2019/08/18 12:21
テッチクリンさま
当記事をお目に留めてくださり光栄に存じます。
橘諸兄公は聖武天皇を補佐した立派な政治家であったと思います。
投稿情報: 玉山 | 2015/01/29 21:07
私は橘の諸兄の子孫です。
投稿情報: テッチクリン | 2015/01/27 17:24