暴君といえば、西洋ではネロ、中国では煬帝、そして本朝では武烈天皇である。『日本書紀』(巻十六、武烈紀)では「しきりに諸悪をなしたまひて、一善を修めたまはず。およそもろもろの酷刑、みずから見そなはさざることなく、国内のおほみたから、ことごとく皆震い怖る」とされ、悪行も具体的に列記されている。
桜井市大字金屋に「海石榴市(つばいち)」があった。「日本最古の市場」(産経新聞奈良版、平成25年9月21日版)という評価もあるようだ。
ここは伊勢、難波、飛鳥、山城へ通じる交通の要衝であった。人々の行き交う交叉点である。物資が集まり市が立つ。市立てば人集まる。人集まれば出逢いがあろうというもの。若き男女の出逢いなら恋の始まりとなる。
後のことだが、推古天皇16年(608)、帰国する遣隋使の小野妹子と共に答礼のため来朝した隋使・裴世清が都入りしたのも、ここからであった。『日本書紀』を読んでみよう。
秋八月辛丑朔癸卯、唐客京に入る。餝騎(かざりうま)七十五疋を遣して、唐客を海石榴市の衢(ちまた)に迎ふ。
さて、遡ること100年前、ここ海石榴市では、古代の合コン?「歌垣」が催されていた。西暦498年10月頃(『へぐりの里の歴史<上>』奈良県平群町による)のことである。写真のように、抜けるような青空が気持ち良い日だったかもしれない。
皇子のオハツセノワカサザキは影媛(かげひめ)にコクるために海石榴市にやってきた。オハツセは影媛の袖をとらえる。そこに割り入ったのが平群鮪(へぐりのしび)、権勢を誇っていた平群真鳥(へぐりのまとり)の子である。
「鮪(しび)よ、なんでお前が出てくるんじゃ」
「お許しください、オハツセの皇子さま。影媛は私の妻でございます」
「はん? オレが太刀を持っとるのを知らんのか。今は抜かんが、媛はいただくぜ」
「そうはまいりませぬ」
「お前から奪うなんぞ、たやすいことだ。ああ、こんな奴と話していると気分が悪い。それより、なあ媛よ、君は真珠の玉のような美しさだよ」
(そんなこと言われても)
困った影媛は鮪を見やる。これを察した鮪は、媛の気持ちを皇子に告げた。
大君の 御帯(みおび)の倭文機(しずはた) 結びたれ たれやし人も 相思はなくに
(大王が身につけておられる倭文織(しずおり)の帯は美しく垂れてございます。その「たれ」なのです。誰か他の人を好きになることはございませぬ)
オハツセはふられた。歌のやり取りをしながら相手の気持ちを探っていく。上手くいけばラブストーリーだが、そうでない時には身を引くことも大切だ。恨みっこなしで別れる。歌垣とはそういう場所だ。それがオハツセにはできなかった。
怒ったオハツセは、この夜に大伴氏に命じて兵を集め、鮪のあとを追って殺害に及んだのである。逆恨みによる殺人事件である。
しかし、この犯罪は権力闘争に転化され、平群真鳥も臣節をわきまえないとして滅ぼされてしまった。そして、オハツセは即位し武烈天皇となり、大伴氏は大連の地位に就いた。
美しい姫、彼女を守ろうとする若者、姫を奪おうとする身勝手な皇子、さまざまな想いが行き交った海石榴市であった。今は河川敷が公園として整備され、毎年「大和さくらい万葉まつり」が行われている。今年も9月7日に行われた。「現代版海石榴市」が賑わうほか、「歌垣火送り」という灯籠流しがある。恋の想いを書く「恋灯ろう」もあるようだ。
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