土一揆、国一揆、一向一揆、百姓一揆と日本史に登場する一揆は多い。政治権力に対する要求を一味同心した人々が武力によって貫徹しようとする事象である。このうち国一揆は国人が主体となって守護大名の支配に抵抗しようとした動きである。その代表例が御存知、文明17年(1485)の山城国一揆である。
京都府相楽郡精華町北稲八間(きたいなやづま)の共同墓地に「山城国一揆逆修(ぎゃくしゅ)の碑」がある。
歴史事象はそれが発生した時点から存在するのではない。少々意味不明に聞こえるかもしれないが、どのような事象であれ、歴史という時間軸に位置付けられて、つまり人が認識することによって初めて歴史事象になるのである。
山城国一揆こそ典型的な例だ。この一揆は1485年以来日本史に刻まれていたのではなく、1912年に発見されたのである。発見者は京都帝国大学の三浦周行(ひろゆき)であり、この一揆を「戦国時代の国民議会」とした。
長い間、人々の記憶から飛んでいたのは、記憶を維持するための遺物を欠いていたからだ。1493年までの8年間、守護大名の支配を排除して36人の代表が自治を行った。そうした出来事の意義の大きさに比べて、現地に足を運んで一揆に思いを馳せる場所は限られている。
そんな中、注目されるのが、このお地蔵様である。
端正なお顔で立姿が凛々しい。重要なのは左右に刻まれている銘文である。
(右)天文六年丁酉十二月二十四日
(左)逆修人数十四人
山城国一揆は1485年に、守護大名である両畠山軍を撤退させることで成立した。しかし、やがて自治を担っていた国人層に対立が生じ、1493年に自治を放棄してしまう。守護勢力の進入にあくまでも反対する国人は、稲屋妻(いなやづま)城に立て籠もって戦うが、敗れ去るのであった。
稲屋妻城は共同墓地の北の城山にあったとされる。その麓にある古い墓は戦死者の墓だろうか。天文六年とは1537年である。ずいぶん時間の差があるが、その間を埋めるのが「逆修」の文字である。
逆修とは、近くの説明板によると、「親が子に先立たれ、その後世を弔うこと」である。ということは、稲屋妻城の戦いで亡くなった14人の若者を親達が弔ったということなのか。少々、時が離れている感があるが、時代の空気を知るお地蔵様には違いない。
墓地は地域の方によってきれいに整備されている。地元の歴史を振り返り、後世に語り伝えようとしている。そのおかげで私も山城国一揆の舞台を訪れることができた。14人の若者よ。五百年後の人々は貴殿らが守ろうとした「自治」を高く評価しておりますよ。