「京橋」は各地で見かける。東京では東京メトロの駅名、大阪でもJRその他の駅名となっているので、よく耳にする。それでは京都には「京橋」があるのか。
一つは京都市伏見区京橋町に京橋。そして今回もう一つ京都府南部の木津川市加茂町例幣の大井谷川に架かる小さな京橋を見つけた。「例幣」とは一般に「朝廷から毎年の例として神にささげる幣帛」のことである。この地も由緒がありそうだ。
京橋は城下町から京都方面へ向かう、あるいは京都方面からやってきて城下町へ入る道筋に設けられていることが多い。写真の京橋はどうだろうか。確かに京都からやってくると写真の向きで京橋を渡ることになる。この道を進むと何があるのだろうか。
珍しい木造校舎の学校がある。木津川市立恭仁(くに)小学校である。昭和11年建築の歴史ある校舎はテレビドラマ(よみうりテレビ制作、ドラマスペシャル「オカン」、2000/09/03)のロケ地になったそうだ。この小学校には、これ以上にすごいことがある。
校舎の背後に「恭仁京(くにきょう)大極殿(だいごくでん)址」があるのだ。大極殿の前庭、首都の中枢に校舎は建っている。
加茂町例幣という大字は広くてここも例幣である。ここに建っていたという大極殿はどのような建造物だったのか。そのイメージは平城宮跡で知ることができる。
これは平城宮跡にある第一次大極殿の復元である。恭仁京の大極殿は平城京の大極殿を移築したものである。つまりは、小学校の木造校舎の背後にこの壮麗な建造物があったということだ。ちなみに、この大極殿は、もと藤原京にあったものだという。
天平12年(740)12月15日に造営の始まった恭仁京は、天平16年(744)2月20日、難波京への遷都が発表され廃都となった。『続日本紀』の記述を確かめよう。
天平12年12月15日条
皇帝(聖武天皇)、前に在りて恭仁宮に幸す。始めて京都(みやこ)を作らしむ。太上天皇(元正太上天皇)、皇后(光明皇后)、後に在りて至れり。
天平16年2月20日条
恭仁宮の高御座(たかみくら)并びに大楯を難波宮に運び、又、水路を取り兵庫の器杖を運び漕がしむ。
3年余りの都であった。短いとはいえ都となった事実に重みがある。地域の財産であり誇りである。首都機能移転後は「山城国分寺」となった。七重塔といわれる塔の礎石が残っている。
恭仁京を後にして木津川を渡りJR加茂駅へと向かおう。恭仁大橋を渡る手前に歌碑がある。万葉歌人、大伴家持である。彼は聖武天皇によく仕え、恭仁京にもしばらく暮らしていたようだ。歌碑の後方には恭仁京が見えたはずだ。揮毫は東大寺第214世別当の守屋弘斎師である。
今造る 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし
『万葉集』巻第六に掲載されている。歌番号は1037である。詞書は次のとおりである。
十五年癸未(みづのとひつじ)秋八月十六日、内舎人(うどねり)大伴宿禰家持(おほとものすくねやかもち)が久邇(くに)の京(みやこ)を讃(たた)へて作れる歌一首
歌は万葉仮名ではこうなる。
今造 久邇乃王都者 山河之 清見者 宇倍所知良之
新しく造っている恭仁京は山河が清く美しい。王都に定められたのはもっともなことだ。新京を寿ぐ家持の歌によって祝祭ムードはさらに盛り上がっただろう。
しかしその後、ほどなく廃都とされてしまうとは誰が想像していたのか。それでも山河の美しさは昔も今も同じなのだろう。恭仁大橋を渡りながら木津川の流れを見ながら、移ろいゆくものと変わらないものとで世の中は成り立っているんだろう、そんなことを思っていた。
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