24日、猪瀬直樹東京都知事が辞職した。猪瀬直樹氏といえば、「ミカドの肖像」「天皇の影法師」における切り口の鋭さを思い起こす。優れた著作で、天皇とは陛下個人にとどまらず、日本人の心性、メンタリティだということがよく分かる。
このような才能の持ち主が、あのような無様な辞め方をしなければならないとは。いや、それが人間だろう。みんなから頭を下げられたら、勘違いして驕慢になるのは自然なことだ。それゆえに、どのような立場に立っても自分を見失わない人は立派なのだ。
後任の都知事は誰になるのか。他人事だけに面白がっている。外添さん、東国原さん、橋本さん、小池さんなど、それらしい人の名前が出たり消えたりしている。同様に一時期、名前が登場した人が下村博文文部科学大臣である。安倍首相に近いことが決め手だったようだが、見送りになったらしい。
さて、その下村さんは文科相として15代目だ。文部科学大臣の前身である文部大臣は125代続いたが、その初代となるのが森有禮である。今日は日本教育史に欠くことのできない重要人物のお話である。
港区南青山二丁目の青山霊園に「贈正二位故文部大臣勲一等子爵森公墓」がある。森有禮の墓である。
森有禮は現代の表記では森有礼であり、「もりありのり」とも「もりゆうれい」とも呼びならわしている。内閣制度発足と同時に文部大臣に就任した。明治18年(1885)12月22日のことである。
森は現職のまま亡くなった。暗殺である。時は明治22年(1889)2月11日の朝、大日本帝国憲法発布の記念すべき日で、帝都は一面の銀世界だった。森は大礼服を着て式典参列の準備をしていた。そこへ訪れたのが、山口県士族、西野文太郎。暗殺の危険をお知らせしたいと偽って、森に面会するや、いきなり腹部を刺した。
西野は森の部下によって斬殺されたが、森も夜になって絶命した。墓碑の裏には「明治廿二年二月十二日薨」とある。
凶行の背景には、次のような出来事があった。前年暮れの12月28日、森が伊勢神宮の外宮に参拝した折に、右手のステッキで几帳を掲げて中を見ようとしたのだ。実際にはしなかったのだが、話が大きくなって伝わったようだ。
非業の死を遂げた森文相の最大の功績は、学校令の制定であろう。明治19年(1886)3月2日の帝国大学令に続いて、4月10日に小学校令、中学校令、師範学校令、諸学校通則が公布された。この5つの勅令を合わせて学校令という。
それまでの教育制度は教育令のみにより包括的に規定されていたが、森は学校種ごとに法令を定め、近代的な教育制度を確立した。中島萬朶『明治の教育』(永澤金港堂、昭18)では、次のように評価されている。
この「学校令」の公布によって、従来の欧米流、特に米・英流の功利主義的・自由主義的教育制度が止揚せられ、茲に我が国古来の面目に立還った国家主義的教育制度が確立出来たことは、誠に邦家のため慶賀すべき事柄である。
昭和18年という時代の空気がこのように評価させているように感じられるがそうではない。実際、森は死の二週間前の1月28日、直轄学校長に対して次のように次のように訓示している。
諸学校ヲ通シ学政上ニ於テハ生徒其人ノ為ニスルニ非ズシテ国家ノ為ニスルコトヲ始終記憶セザルベカラズ
今も教育という社会制度には二つの側面がある。一つには個々人の成長の支援であり、一つには国家水準の向上である。一人ひとりの成長を願って先生方は日夜努力されているが、一部のマスコミや政治家は日本の順位あるいは県の順位を上げろと声高に叫んでいる。
一位でなきゃダメなんですか。我が国の学力水準はじゅうぶん高い。決して現状に満足してはならないが、ペーパーテストで測れるものがすべてではない。こんな悠長なことが言えるのも、教育によって近代国家の確立を目指した森文部大臣のおかげなのだ。