犬養毅は「憲政の神様」と呼ばれる。「話せばわかる」に象徴される民主主義を体現する人物である。同い年の人物に頭山満がいる。右翼の巨頭か黒幕のように思われている。一見、思想的に反対方向を向いているように感じるが、二人は共通した考え方があった。
アジア主義である。欧米勢力の支配から独立し、封建的なるものを排して自立した国づくりを行おうとするアジアの人々に連帯しようとする考え方である。額面どおりの大東亜共栄圏の構築である。それが羊頭狗肉のスローガンとして使われ、日本の侵略の隠れ蓑にされたから、アジア主義のイメージが悪くなった。
頭山満はまぎれもなくアジア主義者である。犬養毅もまた、まぎれもないアジア主義者である。二人は盟友であり、中国の孫文やインドのラス・ビハリ・ボースらの活動をともに支援している。
港区南青山二丁目の青山霊園に「頭山満墓」がある。頭山満はアジア主義の団体、玄洋社の中心人物として知られている。
ずいぶん前に、福岡市中央区舞鶴二丁目の玄洋ビル内にあった「玄洋社記念館」を訪れたことがある。当時は玄洋社について侵略を幇助した右翼団体と勘違いしていたので、怖いもの見たさでおそるおそるビルに入った。
たくさんの史料が展示されていたが、中でも印象に残ったのが頭山翁の掛軸である。おおらかで伸びのある独特の書風が気に入った。その後、調子に乗ってヤフオクで翁の書を落札してしまった。
翁が支援した孫文は1925年(大正14年)にこの世を去る。その後継者となったのは蒋介石だ。しかし中国の統一は簡単ではない。1927年(昭和2年)に蒋は内訌により日本に亡命することとなる。この時、蒋を保護したのも翁であった。こうした縁で蒋は翁との間に信頼関係を築くこととなる。
その後、日本は満州事変、日中戦争へと突入し、蒋介石とは敵対関係になってしまう。戦争は泥沼に陥り、にっちもさっちもいかなくなった。日本は南方へ活路を求めるが、そのことで米国との関係が悪化してしまう。そんな昭和16年9月のこと、日中和平工作が試みられるのである。
仕掛人は東久邇宮稔彦王。広い視野を有し客観的な判断のできる皇族であった。東久邇宮は頭山翁を自邸に招き、次のように依頼したという。東久邇宮稔彦『私の記録』(東方書房、S22)
日華が牆(かき)に相せめぐ今日の情態は、お互に憂慮にたえない。このまゝに推移すれば、世界の過乱にならぬとも限らぬ。あなたも既に老齢ではあるが、最後の御奉公として、日華の和平のために一肌ぬいでもらえまいか。重慶に出かけて行ってひと働きやってほしいと思うが、どうだろうか。
頭山翁と蒋介石の信頼関係に期待して、蒋に国際平和の提唱を勧めてもらおうという算段であった。それだけではない。国内の好戦的な右翼分子や軍部の不満の抑え込みにも効果があると計算してのことだ。これに対して翁は答えた。
最後の御奉公をいたしましょう。
運命が開けたかに見えた瞬間だったが、東條英機陸軍大臣に止めさせられたのだという。多大な犠牲を払って戦争を行っている、今さら後に引けるか、完遂だ。陸相はそんな考えだったのだろう。蒋介石とて中途半端に妥協はできなかっただろうし、仮に日本軍の駐留が認められても、後の共産党政権によって完全に駆逐されたであろう。
それでも、である。あらゆる可能性を探って解決策を見出さねばならなかったのだ。頭山翁は蒋介石と対話ができる日本人としては、当時最適な人物といえる。アジア主義者の最後の御奉公は幻に終わった。
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