「話せば分かる」というのは、人を信頼しているからこそ言える表現だ。情を込めて、理を尽くして話し合えば、必ずや道は拓ける。人は必ず分かりあうことができるのだ。昭和7年5月15日夕刻、海軍青年将校に銃口を向けられた犬養毅は、そんな無法者にも話して聞かせようとした。大人物である。
港区南青山二丁目の青山霊園に「犬養毅之墓」がある。
墓碑の側面には次のように刻まれている。
備中庭瀬人
安政二年四月廿日生
昭和七年五月十五日歿
享年七十八
備中庭瀬とは現在の岡山市北区の地名である。郷里岡山では「犬養木堂」と号で親しまれている。今も尊敬されている木堂翁は、凶弾に倒れるずっと以前から大人気であった。大正2年(1913)年4月18日付の『山陽新報』によると、次のような熱狂だったという。『世相おかやま昭和戦前明治大正編』(山陽新聞社)からの孫引きである。
春空に響く護憲の声
春やたけなわなる四月十六日、さらでだに花に浮きたてる人の心は、犬養、尾崎両氏の来岡によりて、いやが上にもそそり立てられた。ここ岡山市下石井大蔵省用地の広場で岡山憲政擁護大演説会が開かるると聞いた人々、開会は午後二時なのに、午前十時頃から続々と会場へ押しかける者引きもきらず。間服に鳥打、フロックに山高、紋付羽織に袴、さては前垂掛や法被姿の草鞋履の連中まで行くわ行くわ。
(中略)三時四十分、犬養、尾崎両氏が自動車で会場に着する。群衆は帽子を打ち振って万歳を連呼するすさまじさ。
(中略)当日花形の一人、犬養毅氏の姿をみた群衆は「犬養万歳、犬養万歳」を連呼し、同時に「帽を取れ、帽を取れ」との声が諸所に起こった。同氏は「憲政の本義」と題して演説、政治上、軍事上、経済上において主要なる地位を占めている者はことごとく長州人である、と言った時、群衆は一時に拍手喝采した。同氏は重みある口調をもって滔々一時間余にわたる演説をして引き下がった。最後に尾崎行雄氏が壇上に立ち(中略)終わったのは午後五時半、春の永い日も暮れかけんとしていた。
大正2年といえば、護憲運動が「閥族打破、憲政擁護」をスローガンとして高揚し、2月20日には第3次桂太郎内閣を総辞職に追い込んでいた。その中心となったのが木咢両堂(ぼくがくりょうどう)、尾崎行雄(咢堂)と犬養毅(木堂)であった。
安倍内閣の支持率は50%前後と高いようだが、それでも下がる傾向にある。特定秘密保護法での強行採決の印象が足を引っ張っているようだ。来年4月には消費税が8%となることを思えば、景気の先行きも不透明だ。憲法改正も視野に入れているようだが、近ごろ発足した「結いの党」は、果たして護憲勢力になりうるのかどうか。
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