11月20日、岸田文雄外務大臣は、外務省を表敬訪問したキャロライン・ケネディ駐日大使に「ブリザーブド・フラワー」をプレゼントした。本物のバラを枯れないよう特殊加工したもので、花びらには日米国旗と大使の氏名がプリントされていたそうだ。
中国や韓国との外交関係が厳しい状況にある今日、米国との同盟強化によって危機を乗り切ろうとしているのか。岸田外交の腕の見せ所である。バラ一本で外交関係が左右されるわけではなかろうが、日米関係は今も昔も外交面のホットスポットである。
港区南青山2丁目の青山霊園に「侯爵小村寿太郎墓」がある。明治の外務大臣、宮崎県日南市出身と分かりやすく表示されている。飫肥(おび)藩の下級藩士の出身で、米国のハーバード大学へ留学した秀才である。
小村寿太郎といえば、ポーツマス条約の締結と関税自主権の回復が二大業績として高く評価されている。
1906年(明治39年)9月5日に米国ニューハンプシャー州ポーツマスで、日露戦争の講和条約をロシア全権ウィッテとの間に結んだ。賠償金獲得など期待を過大に膨らませている国民を背後に、小村の条約交渉は厳しい局面が続いた。それでも粘り強く冷静な態度で妥結に導き、日本の大陸進出の足掛かりをつくった。
さらに、小村の主導により、1911年(明治44年)2月21日に日米通商航海条約が調印され、この年のうちに日本の関税自主権の完全な回復が成し遂げられる。明治初年以来の不平等条約改正の総仕上げである。
つまり、近代日本の国際的地位の向上に大なる貢献をした外務大臣、その人こそ小村寿太郎であった。それが今日における一般的な評価だが、戦前は少々異なった見方もあったようだ。1934年(昭和9年)の小松緑(霞南)『近世秘譚偉人奇人』 (学而書院)を読んでみよう。
小村寿太郎 ―満州の守護者―
「試みにわが国の外交家中、たれが一番えらかったかと顧みれば、何といっても、故小村寿太郎侯をもって、経綸外交家の第一に推さねばなるまい。――小村侯の遠大な経綸は、世界いづれの役者とくらべても、少しも遜色がない。」
これは、小村以後の名外交家といはれた石井菊次郎子の批評であるから、吾々は、額面どほり割引きなしに受け入れてよかろう。
昨今、何人も満州をもってわが国の生命線としてそれを死守せねばならぬといってゐるが、満州をしてよく今日あらしめた恩人が、終始一貫、この重要地帯の守護に死力を尽した小村寿太郎その人であることを知っている者は、あまり多くあるまい。
満州に帝政が実施され、満鉄に特急あじあ号が走り始めた昭和9年だから、小村と満州との関わりに目が向くのも当然だろう。
ポーツマスで講和会議が終盤を迎えた1905年(明治38年)9月初めのこと。日本が獲得することとなる奉天以南の東清鉄道について、米国の鉄道王ハリマンが共同経営を申し込んできた。桂首相のみならず元老たち、特に井上馨が強く賛意を示し、10月12日に桂・ハリマン協定が結ばれた。この背景には、日本の財政負担の軽減とロシアの再南下阻止という狙いがあった。
その4日後に帰国した小村は、この協定に強硬に反対し破棄へと導く。その心は、米国の真の狙いは自国の利権拡張であり、それによって日本の南満州支配は脅かされる、というものだった。南満州の権益を排他的に確保しようとした小村は続いて清国に赴き、強い態度で交渉して同年12月22日に満州善後条約を締結し、南満州鉄道に対する併行線の禁止など、日本の権益を認めさせたのである。
その後、1909年(明治42年)に米国のノックス国務長官が全満州の鉄道中立案、すなわち日本、ロシア、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの6か国による共同経営を提案してきた。この時、二度目の外務大臣をしていた小村は、権益確保の観点から明確に拒否する旨を回答している。
確かに小村寿太郎は満州確保に強い関心を持っている。小村は1911年(明治44年)に亡くなるが、その後の歴史は彼の敷いたレールの上を進むかのように展開し、わが国は満州を「生命線」と捉え利益を独占していくのである。昭和9年の時点で小村を「満州の守護者」とする形容は的を射ている。上記引用の一文は次のように締めくくられている。
今や満州は、日本の擁護のもとに、混乱と無秩序との修羅場たる支那本土から独立して、平和と繁栄との楽園を作りつゝある。地下における小村侯の霊は、さぞかし悦んでゐることであらう。しかし今後における重大な対外関係に思ひいたれば、侯の如き経綸外交家の続出を衷心から祈願せざるを得なくなる。
満州国の今日あるは小村侯のおかげと謳いながら、その行く末に一抹の不安を感じているようだ。それが的中するのだから歴史は恐ろしい。
1927年に張作霖が満鉄併行線を敷設するなど、鉄道権益をめぐる日中の対立はその後も続いた。関東軍は一連の問題を解決するため満州事変を引き起こし全満州を占領するのだが、それが結果的に日中戦争、太平洋戦争へとつながっていく。戦争を食い止めることのできる経綸外交家は現れなかった。
あの時、小村がハリマンの提案に反対せず、満鉄が日米の共同経営になっていたとしたら、その後の歴史はずいぶん変わったはずだ。日米の衝突は不可避であったろうが、破滅的な戦争には至らなかったかもしれない。そう考えると、歴史的な岐路に立っていた小村の決断はたいへん重い。
小村の決断から40年後に日本はすべてを失うが、その責任を小村に問うのは後世に生きる者の傲慢である。人生にしろ政治にしろいつも分かれ道はある。経綸の才に富んだ人材を確保し、そのつど適切な判断をしていく、それが後に続く者の使命である。
小村寿太郎の墓の隣に長男欣一の墓がある。父の亡きあと侯爵を襲い、昭和4年(1929)に植民地統治などを管轄するために設置された拓務省の初代次官に就任した。翌年に若くして亡くなり、植民地の行く末を見ることはなかった。
小村寿太郎が向き合ったのは、アメリカ資本から日本の国益を守ることであった。今、わが国はTPP交渉に臨んでいるが、年内の妥結は無理だったようだ。これも、ある意味アメリカ資本との戦いであり、ある意味わが国の成長のチャンスである。年明けに関税撤廃など重要事項が議論されることになる。岐路に立つ日本には、やはり経綸外交家が必要である。