12月になると忠臣蔵が気になる。8月に太平洋戦争への関心が高くなるのと同じだ。史実が風物詩のように後世の人々に受けとめられている。あの暑い夏だったとか、あの雪の日にだとか、出来事が季節とともに語られてきたからだろう。そう、あの雪の日の、いや実際には降っていなかったらしいが、赤穂浪士の吉良邸討入の日が近い。
中野区上高田四丁目の萬昌院功運寺墓地に「吉良家の墓所」がある。「吉良上野介義央墓」は4基の宝篋印塔のうち一番右である。
吉良上野介は狡猾なイメージで語られてきたが、赤穂浪士への同情が為せる業だろう。吉良の地元、現在の西尾市吉良町では名君として語り伝えられている。同市吉良町岡山の華蔵寺に墓がある。
中野区の萬昌院は今川義元の三男で僧侶となった一月長得(いちげつちょうとく)が開基である。吉良氏は今川氏と近い関係にあったので、この寺を菩提寺とした。墓塔の詳細については、中野区教育員会の説明板を読んでみよう。
この万昌院は、もと千代田区永田町にありましたが、のち新宿区の市谷・筑土八幡をへて、大正二年現在地に移ってきました。
幕府高家の吉良家は、この寺を菩提寺としていました。義定(よしさだ)・義弥(よしみつ)・義冬(よしふゆ)・義央(よしなか)の四代にわたってその墓石・供養塔が建てられています。高さの違いはありますが、いずれも宝篋印塔です。相輪部の彫りが深く、特に請花(うけばな)や笠部の隅飾突起(すみかざりとっき)は、どれも外方に向って突出するなど江戸時代の作風を示しています。
義央の石碑面に「元禄十五年壬午十二月十五日」と刻まれているのは、赤穂浪士の討ち入りの際に死去した史実を裏付ける金石文として興味深いものです。
なお、昭和五十五年、義央の墓前には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。
吉良義定は徳川家康と従兄弟になる。共通の祖父は松平清康である。義弥は義貞の長男で、格式ある家柄の高家として処遇され、儀式や典礼をつかさどるようになった。義冬は義弥の長男で、将軍の御使としてしばしば京都や日光に赴いた。
そして、義冬の長男が義央である。時に元禄十四年(1701)3月14日、義央は祖父以来の家職である儀式の指導役を務めていたところ、勅使饗応役の赤穂藩主浅野内匠頭に突然斬り付けられたのである。背中と額に傷を負ったものの命に別状はなかった。
浅野は吉良に遺恨を抱いていたようだが、詳しい調査は行われないまま浅野は即日切腹となった。このことで赤穂藩士の一部は主君への忠誠心のあまり、吉良に対しては復讐心を抱くようになった。
そして、元禄十五年12月14日(1703年1月30日)深夜、正確には15日(同31日)未明、赤穂浪士47名は吉良邸に侵入し、家人多数及び義央を殺害した。
被害者、吉良義央の墓碑には次のように記されている。
元禄十五年壬午十二月十五日
霊性寺殿実山相公大居士
従四位上左近衛少将吉良前上野介源義央朝臣
吉良は4200石ながらも従四位上左近衛権少将と、高家ならではの待遇を受けていた。これに対し浅野は5万3千石ながらも従五位下内匠頭、格下である。
おそらくは吉良の言動に浅野の遺恨の原因があったのだろう。「鮒だ、鮒だ、鮒侍だ!」と罵倒されたかどうかは分からないが、プライドが傷つけられるのは恨みの最大の原因だ。怒り心頭に発した浅野が果しえなかった吉良殺害を家臣が代行し、従容と切腹して主君のもとへ赴いた。なんと忠義で高潔な赤穂四十七士であることよ。
それでも人は場をわきまえ耐えがたきを耐えることも必要である。現代の価値観で評価するなら、浅野側の暴力による一方的な解決である。
被害にあった義央も憐れだが、それ以上に気の毒なのは吉良家に仕えていた家臣である。主人の口が災いを起こさなかったら、浅野が耐えることのできる人だったら、仇討なんぞに巻き込まれることはなかっただろうに。
墓の前には「吉良邸討死忠臣墓誌」があり、38名の戒名、俗名、役職、行年が刻まれ、「元禄十五年十二月十五日討死」とある。
赤穂四十七士も忠臣ならば、侵入者と果敢に戦って討死した吉良三十八士も忠臣である。忠臣蔵はどちらの側から見ても忠臣蔵なのであった。
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