自由民権運動といえば高知市。板垣退助を筆頭に、植木枝盛、片岡健吉と名だたる「いごっそう」が並ぶ。やはり太平洋のような大きな風景を見て育つと大人物になるのだろうか。本日紹介する中江兆民先生も型にはまらない才能と胆力の持ち主である。
高知市はりまや町三丁目に「中江兆民先生誕生地」の石碑がある。
中江兆民といえば「東洋のルソー」と呼ばれた大先生だ。石碑前の説明を読んでみよう。
中江兆民(1847~1901)
自由民権の思想家。フランス留学から帰国後「民約訳解」によってルソーの思想を紹介し、また「東洋自由新聞」「政理叢談」等に自由民権論を発表した。第1回衆議院議員に当選したが民党一部の行動に憤慨して辞職。「三酔人経綸問答」「一年有半」等の著作がある。
時系列に確認してみよう。第三共和制下のフランスに留学したのは明治4年(1871)、岩倉使節団に随行してのことだった。『民約訳解』の刊行は明治15年(1882)のこと。ルソーの『社会契約論』の翻訳である。
訳本の刊行は、実は兆民先生が初めてではなく、明治10年(1877)の服部徳『民約論』の方が早い。それでも兆民先生が有名になったのは、その質の高さによるものだろう。
明治23年(1890)の第1回衆議院議員総選挙で大阪4区から選出された。第1回帝国議会で山県有朋内閣提出の明治24年度予算案の審議が行われる。兆民先生の立憲自由党など民党は予算の大幅削減を狙っていた。
これに対し、政府側は解散するぞと脅しつつも、陸奥宗光を通じて自由党の切り崩しを行った。これが奏功して明治24年2月20日、衆議院は予算削減に関し、議決する前に政府の同意を求めよとの動議を、賛成多数で可決する。いわゆる、土佐派の裏切りである。3月2日に予算も削減額を小さくして成立することとなる。
土佐派とは片岡健吉、植木枝盛らのことである。この事態に同郷の兆民先生は憤懣やるかたない思いで次のような文を書いた。立憲自由新聞(明治24年2月21日付)『中江兆民評論集』(岩波文庫)
衆議院彼れは腰を抜かして尻餅を搗(つ)きたり。総理大臣の演説に震懾(しんしょう)し解散の風評に畏怖し、両度まで否決したる即ち幽霊ともいふべき動議を大多数にて可決したり。衆議院の予算決議案を以て、予め政府の同意を求めて、乃ち政府の同意を哀求して、その鼻息を伺ふて、しかる後に唯々諾々その命これ聴くこととなれり。議一期の議会にして同一事を三度まで議決して、乃ち竜頭蛇尾の文章を書き前後矛盾の論理を述べ、信を天下後世に失することとなれり。無血虫の陳列場……已みなん、已みなん。
議会は人でなしの集まりか、やめた、やめた! さっそく辞表を書いて議長に提出した。その文面とは…
小生事近日亜爾格児(アルコール)中毒病相発し行歩艱難何分採決の数に列し難く因て辞職仕候。此段及御届候也。
アルコール中毒で歩けず、採決に参加できないので辞めます。ってウソだろ。でも分かるよ、兆民先生。100年以上経っても、議員さんたち、あまり変わってませんから。
兆民先生は自由民権運動においては著名人だが、実践的な活動家としてはパッとしない。それでも、先生は理論的な指導者として、政治のあるべき姿を明確に示して下さった。『三酔人経綸問答』という有名な著作もある。おそらくは先生も、酒を飲むと頭が冴えてくるタイプの人だったのかもしれない。
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