坂本龍馬は小さい頃、泣き虫だったらしい。そんな子が長じて日本を動かすようになるのだから、今の子も夢が持てるというものだ。石川啄木は言うまでもなく泣き虫である。浜辺で泣きぬれながらカニと遊んだ人なのだ。どんだけ泣くんやと言いつつ、いつの間にか自分を重ねて鑑賞している。龍馬と啄木には「泣き」が共通していた。
高知市北本町二丁目の高知駅前に「啄木の父石川一禎(いってい)終焉の地」として父子の歌碑が建立されている。
石川啄木のお父さんがこの地で亡くなったのだという。啄木の故郷は岩手県は盛岡のはずだが、どんな事情があったのだろう。歌碑の裏にある説明プレートを読んでみよう。
啄木の父石川一禎は嘉永三(一八五〇)年岩手県に生まれた。渋民村の宝徳寺住職を失職、一家は離散。次女とらの夫山本千三郎が神戸鉄道局高知出張所長として一九二五年に赴任し、一禎も高知に移住した。穏やかな晩年を過ごし、一九二七年二月二〇日に所長官舎(北東約一〇〇m)で七六歳の生涯を閉じた。三八五〇余首の歌稿「みだれ蘆」を残し、啄木の文学にも影響を与えた。
よく怒(いか)る人にてありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ 啄木
寒けれど衣かるべき方もなし
かかり小舟に旅ねせし夜は 一禎
二〇〇九年九月一二日
啄木の父石川一禎終焉の地に歌碑を建てる会 建之
啄木は明治19年(1886)に生まれた。明治35年(1902)に文学への志を立てて上京するが、翌年には父が宗費滞納により住職の地位を追われる。
啄木の姉にあたるトラは山本千三郎という鉄道マンと結婚していた。小樽や函館で駅長を務めるなど道内で勤務していた山本を、困窮した石川一家は頼ることとなる。
啄木は明治45年(1911)4月13日に若くして東京で亡くなる。この時、父一禎は室蘭の山本宅から駆け付け、最期を看取っている。
一禎はその後も娘夫婦の山本家を頼っていたようで、大正14年(1925)に山本の転勤とともに高知に移り、昭和2年(1927)に亡くなる。
しっかりしてよ、お父さん!という感じだが、他人のことは言えた義理ではないので責めるつもりはない。ただ、感心するのは歌詠みの才能だ。啄木の繊細な感性と愁いを帯びた表現はお父さん、あなたのおかげでありました。
龍馬に会えるのかと思って高知駅に降り立つと啄木に出会うことになった。泣き泣きの二人にあやかって、小さなことにも感動し、大きな志も抱くことにしよう。泣ける高知の旅の始まりである。
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