サワラの西京焼という上品な料理があるが、そもそも、「西京」とは何のことだろうか。明治維新で江戸が東京に改称され、東の京が誕生した。これに対して元からの京都は西の京、つまり「西京」と呼ばれるようになった。そこで、京都の白味噌は西京味噌、それに漬け込んだサワラを焼いたのが「サワラの西京焼」というわけだ。
山口県に西京銀行や西京高等学校というのがあるが、話が広がりすぎるのでやめておこう。今日は元祖「西京」のお話である。
八尾市八尾木北(やおぎきた)五丁目に鎮座する由義(ゆげ)神社は「由義宮旧址」である。
今は静かなこの地は、かつて日本第二の要地になったことがある。まずは『続日本紀』神護景雲三年(769)10月30日条を読んで確かめよう。
甲子。詔以由義宮(ゆげのみや)爲西京(にしのきょう)。河内國爲河内職(かわちしき)。賜高年七十已上者物。免當國今年調、大縣(おおかた)若江(わかえ)二郡田租、安宿(あすかべ)志紀(しき)二郡田租之半。又當國犯死罪已下、並從赦除。
由義宮を西京として位置付け、河内国を格上げして河内職という特別行政区とする。70歳以上の者に記念品を下賜する。河内国の今年の調と大県・若江の2郡の田祖、安宿・志紀の2郡の田祖の半分をそれぞれ免除する。罪を犯した者を赦免する。高齢者を敬い、民を慈しみ、罪を犯した者を許す、王者としての振舞いである。
当時、中国の唐王朝では複都制が採られており、長安に加え洛陽や太原を陪都としていた。河内国の弓削の地は「由義」の好字に改められ、平城京に対する「西京」に位置付けられた。我が国における複都制である。
河内国を特別行政区に格上げし、人民に恩徳を垂れた王者とは誰か。また何故に河内国弓削の地だったのか。それは称徳天皇が道鏡を愛していたからである。道鏡はこの地、弓削氏の出身であった。上の記事に続いて、弓削一族が高位を授けられたことが記されている。
称徳天皇の弓削行幸は今回で2回目となる。1回目は天平神護元年(765)、道鏡に太政大臣禅師の地位を授けた時である。前回が称徳・道鏡による共治体制のスタートならば、今回は総仕上げである。すなわち複都制という国家体制が築かれたのである。
今回、天皇が道鏡を伴って由義宮に入ったのは、神護景雲三年(769)10月17日のこと。9月には、かの有名な神託事件があったばかりである。国家の在り方が問われようとする動きの中で、称徳天皇は自らの主導する体制作りと弓削一族の懐柔を図ったのである。
八尾市陽光園二丁目の市立安中(やすなか)小学校に「龍華寺跡」の石碑がある。
龍華寺は『続日本紀』に次のように登場する。天皇の由義宮入りから数日を経た10月21日の条を読んでみよう。
乙卯。權建肆鄽(してん=店)於龍華寺以西川上、而駈河内市人以居之。陪從五位已上、以私玩好交關其間。車駕臨之、以爲遊覽。難波宮綿二万屯、鹽卅石、施入龍華寺。
龍華寺の西の川のほとりに市場を仮設し、河内の商人に店を開かせた。随行の五位以上の者たちには、自分の好きな物を売買させた。天皇は乗り物から、この様子をご覧になった。難波宮の綿2万屯と塩30石を龍華寺に寄進した。
資本主義社会でなくとも、商業は繁栄の象徴である。賑やかさを創出し、民の安寧を我が喜びとする。王者、称徳天皇にとっても人生の華であった。天皇と道鏡の夢の都「西京」は、好スタートを切った。
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