史上有名な「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」の場所は謎である。歴史の面白さは解釈の多様性にある。人によって時代によって歴史的事象はさまざまに受けとめられてきた。しかし、「鵯越」という地名、「逆落とし」にふさわしい地形という有力な手がかりがありながら、その場所が確定しないのだ。
神戸市北区山田町藍那の字、上小野と中小野の境に「相談ヶ辻(そうだがつじ)」がある。
写真は北から南に向けてカメラを構えたものだ。義経もこの目線でやってきたに違いない。時は寿永三年2月6日のことである。道は二手に分かれている。右は白川方面、左は鵯越方面、どこから平氏を攻めるのか、軍議が行われた。
逆落としの場所には二説ある。地名を手がかりとすると「鵯越」から福原へのルート、地形を重視すれば「鉄拐山(てっかいさん)」から一ノ谷へのルートが考えられる。相談ヶ辻を右へ行けば白川から一ノ谷へ、左へ行けば鵯越から福原へ向かうこととなる。
鵯越ルートは道がなだらかで「逆落とし」のイメージには合わない。しかし、義経軍の移動速度が平氏の予想以上に迅速だったなら、「逆落とし」という受けとめ方も考えられるだろう。そこで、ここは相談ヶ辻を左へ向かって歩くこととしよう。
神戸市北区山田町下谷上字中一里山の高尾山地蔵院の前に「義経馬つなぎ松」がある。
今は枯死して株が残るのみである。どのような由来があるのか、鵯越墓園の墓園菅理センターが設置した説明板を読んでみよう。
1184年2月6日(現3月26日)晩、福原に集まった平家10万の軍勢を攻めるため、義経の軍勢がここに集まり、合戦の相談をした。
高尾山山頂より眼下を見下ろすと、和田岬の周辺には総大将宗盛と安徳天皇を守る平家の軍勢が篝火(かがりび)を焚き、火の海をつくっていた。
義経は平家がつくる火の海を海女(あま)が藻塩(もしお)を焼いている火と見なし、「海女に逢うのに武具はいらない」と笑いとばした。
山頂から戻った義経が、武者たちが囲む焚き火の中に加わると、枝ノ源三(えだのげんぞう)が、翁と16才と13才の兄弟を連れて来た。
義経はこの兄弟を道案内人として戦うことに決め、70騎の逆落しの部隊と、逆落しを助ける岡崎四郎の軍勢とに分けた。
翌朝、わずか70騎で10万の平家を敗走させる、「鵯越の坂落し」と呼ばれる有名な戦いが行われた。無数の軍勢に立ち向かう勇気と、危険な崖から逆落しをした義経の勇気は、後々まで語り継がれている。
後に、ここは「義経公御陣(ごじん)の跡」と呼ばれ、ここにあった古松を「判官松(ほうがんまつ)」または「義経馬つなぎの松」と呼び伝え、昔の人が大切にしていた。
ここに出てくる話は、『平家物語』諸本のうち「延慶本」による。一般的な平家物語は語り本系の「覚一本」をテキストとしているが、「延慶本」は読み本系である。義経が平家の軍勢の篝火を、豪胆にも海人の藻塩焼きかいなと笑い飛ばす場面は次のとおりである。
渚々(なぎさなぎさ)の篝火(かがりび)、海人(あま)の苫屋(とまや)の藻塩火(もしおび)かと、おもしろくぞ思はれける。感にたえ給わず、「兵仗(ひょうじょう)の具足(ぐそく)をば、わざととらせぬぞよ。」
この夜が明けると、いよいよ鵯越の逆落としの奇襲である。墓園の坂道を下ると、写真の場所にたどり着く。
神戸市北区山田町下谷上字中一里山と兵庫区里山町と長田区鶯町四丁目の境の辺りに「史跡 鵯越」の標柱が建てられている。
この標柱は昭和29年2月の建立で、次のような説明が刻まれている。
この道は摂播交通の古道で源平合戦のとき源義経がこの山道のあたりから一の谷へ攻め下ったと伝えられる。
ここから数キロ先に一ノ谷はあるのだが、当然ながら、それが逆落としなのか、という疑問が生じる。そこで、義経軍は須磨区一ノ谷町方面を攻めたのではなく、兵庫区雪御所町方面に攻め入って平氏の軍勢を大混乱に陥れたのではないか、という考えが湧いてくるのだ。
逆落としの真実は何なのか。逆落としは創作だという説まであるという。それくらい義経が目の覚めるような活躍をしたということなのかもしれない。相談ヶ辻で迷わされたのは、義経ではなく、逆落としの場所を探求する後世の歴史家であった。