総アクセス数が8万を超えました。ご愛読ありがとうございます。史跡散策のお伴となるような記事を書きたいと思います。今後ともよろしくお願いします。
「鵯越の逆落とし」は『平家物語』の圧巻である。2005年の大河ドラマ『義経』では初回冒頭に逆落としのシーンが放映された。それほどまでに源平合戦を象徴する歴史の名場面である。本日はその名場面の影の立役者のお話である。
神戸市北区山田町東下に「鷲尾氏屋敷跡」がある。
上の写真の石燈籠の右手から鷲尾山にかけてが屋敷跡だといわれているが、何も残っていないので石燈籠が目印となっている。そもそも鷲尾氏とは歴史のどのような役割を果たしているのか。兵庫県教育委員会『平清盛と源平合戦関連文化財群の調査研究』に掲載の「鷲尾氏屋敷跡」の項目を読んでみよう。
寿永3年(1184)一の谷の合戦で、源義経を鵯越まで道案内した鷲尾経春の館があったと伝えられている。この合戦で源義経は勝利し、鷲尾経春は功績を認められて武将となり、領地を与えられた。その子孫は昭和初期までこの地に暮らしていたという。東にある鷲尾山には鷲尾一族の墓もある。
鷲尾経春は平家物語に登場する「鷲尾三郎義久」のことである。先述の大河ドラマでは長谷川朝治が演じていたらしいが、よく覚えていない。三郎の子孫はこの地域の取りまとめ役として長く栄えていた。下は「鷲尾氏墓所」の写真である。古い墓碑から新しいものまで並んでいる。
義経を鵯越まで道案内したのが鷲尾三郎だと聞いても「ふーん」と思うだけだろう。ここはやはり臨場感あふれる平家物語に語ってもらおう。三郎は実は父の代役であった。猟師で土地に詳しい父と御曹司義経のやり取りは有名な場面だ。『平家物語』巻第九「老馬」である。(岩波文庫、昭和4)
比は二月初の事なれば、峯の雪村消て、花かと見ゆる所も有り。谷の鶯(うぐいす)音信(おとづれ)て、霞に迷ふ所も有り。上れば白雪皓々(かうかう)として聳(そび)え、下れば青山峨々(がが)として岸高し。松の雪だに消やらで、苔の細道幽(かすか)なり。嵐にたぐふ折々は、梅花とも又疑はれ、東西に鞭(むち)を上(あげ)、駒をはやめて行く程に、山路に日暮ぬれば、皆下居(おりゐ)て陣をとる。武蔵坊弁慶、老翁(ろうおう)を一人具して参りたり。御曹司、「あれは何者ぞ。」と問たまへば、「此山の猟師で候。」と申。「さて案内は知たるらん。在の儘(まゝ)に申せ。」とこそ宣ひけれ。「争(いかで)か存知仕らで候べき。」「是より平家の城廓一谷へ落さんと思ふは如何に。」「努々(ゆめゆめ)叶ひ候まじ。三十丈の谷十五丈の岩崎など申処は人の通べき様候はず。まして御馬などは思ひも寄り候はず。其うへ城のうちにはおとしあなをもほり、ひしをもうゑて待まゐらせ候らんと申」「さてさ様の所は鹿(しゝ)は通ふか。」「鹿は通ひ候。世間だにも暖(あたゝか)に成候へば、草の深いに臥(ふさ)うとて、播磨の鹿は丹波へ越え、世間だにも寒う成り候へば、雪の浅きに食んとて、丹波の鹿は播磨の印南野(いなみの)へかよひ候。」と申。御曹司「さては馬場ごさんなれ。鹿の通はう所を、馬の通はぬ様や有る。軈(やが)て汝案内者つかまつれ。」とぞ宣ひける。此身は年老て叶うまじい由を申す。「汝は子は無(ない)か。」「候(さぶらふ)」とて、熊王と云童の生年十八歳になるをたてまつる。やがて髻(もとどり)取あげ父をば鷲尾庄司武久と云ふ間、是をば鷲尾三郎義久と名乗せ、先打(さきうち)せさせて、案内者にこそ具せられけれ。平家追討の後、鎌倉殿に中違(なかたが)うて、奥州で討れ給ひし時鷲尾三郎義久とて、一所で死ける兵也。
弁慶がお爺さんを連れてきた。
義経「誰や?」
弁慶「この山の猟師でございます。」
義経「おまえさん、この辺の道は詳しいやろ。正直に言えや。」
猟師「知らんわけございませんがな。」
義経「ここから平家のおる一ノ谷に攻めよう思うがどないや。」
猟師「そりゃ、無理でっせ。深い谷や高い崖があって人は通りまへんで。まして馬なんかあきまへんわ。平家の城には落とし穴やら菱があるっちゅうことです。」
義経「ほんなら、鹿は通るんか。」
猟師「はあ、鹿は通りますな。温(ぬく)うなったら播磨の鹿はふかふかの草の上が気持ちええで丹波へ行き、寒(さむ)うなったら雪の浅いところで食べたいさかいに印南野へ帰りますな。」
義経「ほんなら馬場ちゅうこっちゃな。鹿が通るんなら、馬かて行けるやろ。おまえさん、すぐに案内せいや。」
猟師「いやいや、わたしは年寄りですので堪忍しておくれやす。」
義経「さよか。おまえさん、子供はおるんか。」
猟師「はあ、おります。ほんなら、うちの息子をやりましょか。」
この息子ができた男であった。平氏に気付かれぬよう上手く義経一行を導き、逆落としを成功させた。さらには義経への忠義を貫き、奥州で死を共にしている。父の情報提供と息子の忠義。鷲尾父子あっての鵯越の逆落としであった。
さて、現代の日本外交である。靖国参拝によって、中韓と溝を深め、アメリカにも不信感を抱かせてしまった現今の状況。ロシアのプーチン大統領とは仲が良かったのだが、クリミア問題で身動きが取れなくなっている。さあ、御曹司・安倍首相を導く鷲尾三郎は現れるのであろうか。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。