「中甚兵衛(なかじんべえ)」という人物を私は今まで知らなかったが、大阪の小学校4年生はけっこう知っている。遠足でも中甚兵衛ゆかりの地を訪れるのだという。全国区ではないが地元では有名なローカル偉人なのだろう。それでいいのだ。地元の偉人の活躍が地元の小学生に語り伝えられる。素晴らしい郷土教育である。
柏原市上市二丁目に「中甚兵衛翁像」がある。
なんだか真似したくなるようなキマったポーズだ。翁が大阪府にもたらした恩恵とはどのようなことだろうか。説明プレートを読んでみよう。
大和川付けかえと中甚兵衛
河内平野を幾筋もに分かれて淀川に注いでいた大和川が、今の姿に付けかえられたのは、元禄が宝永と改元された1704年のことです。工事は、わずか8ヶ月で完成しました。洪水に悩む地域のお百姓の訴えが実を結んだものですが、最初の江戸幕府への願い出から付けかえの実現までには、50年近くの月日を要しました。
その間にも幕府は何度か付けかえの検分をしました。そのたびに新しく川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止されました。しかし、3年連続して河内平野が全て泥海と化すような大洪水もあって、幕府は対策に本腰を入れ専門家を派遣、工事を行いました。この工事で、淀川河口の水はけは良くなったものの、大和川筋は一向に改善されず、 川床には土砂が堆積して田畑より3メートルも高い天井川になってしまいました。
しかも、幕府は付けかえ不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、 付けかえの要望が出来なくなり治水を望む運動の規模も、どんどん縮小してしまいました。しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続けた根気と情熱が、幕府の方針を変更させたのです。
この付けかえ促進派で終止運動の中心にあったのが代々の今米村(現在の東大阪市今米)の庄屋に生まれた中甚兵衛で、同志の芝村・曽根三郎右衛門や吉田村の山中治郎兵衛の引退や死にもめげず、最後はたった一人で何度も奉行所に出向き工事計画を具申しました。そして、ついに力量を認められ実際の工事にも御用を仰せつかりました。また、その子九兵衛もそれを手伝ったと記録されています。
甚兵衛、付けかえ時66歳。翌年剃髪して乗久を名乗り、享保15年92歳の天寿を全うして亡くなりました。
御墓は京都 東山 西大谷に、生地の旧春日神社跡には従五位記念碑が、またその北100メートルには生家の屋敷跡の石垣が残っています。
なるほど、災害に強い安全安心の村づくり、治水による生産性の向上に貢献した地域の偉人である。元禄という高度経済成長期は、大規模な地域開発が相次いでいた。こうした時代の勢いも中甚兵衛の後押しになった。
甚兵衛翁像の指差す方向には何があるのか。おそらくは下の写真の辺りではないか。近鉄道明寺線の電車が大和川を渡る場所である。
藤井寺市船橋町に「新大和川付替起点」の標柱がある。北方面に流れていた川を、ここから西へと向けたのである。
ここから堺の海までは約14.3km、幅約180mの川を8か月の工期で完成させた。大和川の旧流路は新田となり、石高にして1万石を越えるほどの大きさであった。そこでは、綿作がさかんに行われ、河内木綿が特産品となっていく。
中甚兵衛翁、あなたはすごいです。小学生が学ぶにふさわしい偉人であります。災害は無くなり新田が生まれ産業が発展した。今では新田は住宅地になり多くの人々が暮らしている。大阪の活気はこの地域に住む人々が生みだしているともいえる。翁を大阪名誉府民に推薦する次第である。
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