安政二年十月二日亥の刻、西暦でいえば1855年11月11日午後10時、都市直下型地震が発生した。マグニチュードは6.9、震度6、死者は7千人以上と言われる。
この種の地震は繰り返し発生しており、関東大震災もその一つだ。当然、今後発生する可能性は高い。30年以内に70%というが、こうしているうちに揺れだしても不思議ではない。
文京区後楽一丁目に「藤田東湖(ふじたとうこ)護母致命(ごぼちめい)の処(ところ)」がある。東京都指定旧跡である。写真の道路は白山(はくさん)通りである。
藤田東湖は、西郷隆盛も尊敬する水戸の尊王攘夷活動家である。彼を祀る「東湖神社」については以前にレポートしたことがある。
「護母致命」とは聞いたことのない四字熟語だが、読んで字の如く、母を守って命を落としたということだ。いったい何があったというのか。歩道を行く人は足早に通り過ぎるが、ここは立ち止まって文京区教育委員会作成の説明板を読んでみよう。
幕末の勤皇家 藤田東湖(1806~55)は、水戸の藩士で、藩主徳川斉昭(なりあき)の信任も、きわめてあつかった。
弘化元年(1844)藩政改革に尽力したが、逆にそれが幕府の疑惑をまねき、斉昭は謹慎に、東湖は蟄居(ちっきょ)の身となった。後に許され、斉昭は藩政に復帰し、東湖は江戸詰(づめ)を命ぜられ、小石川の水戸上屋敷に住み、側用人(そばようにん)となった。
安政2年(1855)大地震がおこり、藩邸が倒壊(とうかい)した。東湖は母を助けて外に出たが、母がその時、火鉢の火が危ないと、再び屋内に引きかえした。東湖は母を救い出そうと家にもどった時、鴨居が落ちてきた。東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭に出した。しかし、東湖は力つき、その下敷きとなって圧死した。
その場所は白山通りで、そこに記念碑があったが、拡幅(かくふく)工事のため道の中になってしまった。そこでその碑は、後楽園庭園内に移された。
その碑を訪ねて小石川後楽園に行けばよかったのだが、出張の合間だったので余裕がない。そこでネットで調べてみると、確かに園内の北東隅に現存することが確認できた。石碑の銘は「藤田東湖先生護母致命之處」である。
この石碑の元の姿を古本で発見した。吉川綾子『藤田東湖の母』(帝国図書)である。昭和19年発行というから、かなり切迫した時代だ。忠孝が求められていた時代だった。東湖の自己犠牲の姿は、戦争末期を生きる人にとって、決して他人事ではなかったろう。
この本の扉に元の姿の写真が載っている。そして、この碑が昭和17年11月25日に、東湖の玄孫に当たる藤田季子さんによって除幕されたことが記録されている。そしてその章は次のように締めくくられている。
東湖が逝いたのは八十七年のむかしのことであるが、老母梅子を救ってその身がはりとなった、至孝の碑は、今われわれが、涙とともに仰ぎみるものとなり、永久にその尊い純情の精神を伝へてゐるのである。
そうなのだ。子を夫を兄弟を戦線に送っていた銃後の女性が隠忍自重していた時代の美談の記録なのだ。しかし、過去の事ではない。自らの命を顧みない自己犠牲の悲劇は今も美しく報道されている。
ところが、驚くべき情報を得たのである。武者金吉『日本地震史料』(毎日新聞社)は、昭和26年の古い本だがこのたび図書館が貸してくれた。これに収められている手記「むし倉後記続篇」が、安政江戸地震の記録で、筆者は松代藩の家老、河原綱徳(かわらつなのり)だ。
この手記の中に松代藩士の山寺源太夫(常山)の書状が収録されている。山寺常山(やまでらじょうざん)は佐久間象山、鎌原桐山と並んで松代の三山と呼ばれた秀才で、藤田東湖とも親交があった。それでは、その書状を読んでみよう。
云々 其内水府藤田誠之進(元虎之助)私ニ二歳長じ今年五十歳ニ御座候。御別條之趣都下一般之風説ニ御座候處私も殆年来之知己誠驚嘆仕不勝哭泣ニ、幸之出府殊ニ往来手近ニ付乍此節罷帰之節一寸立寄弔ひ候處、寡婦ハ乳呑子を懐ニして嗣子健次郎十五歳、一同面会其死之事一亘り承り候處、老母ハ幸ニ遁れ出助り、是も小屏風の陰ニ寝臥居候様子ニ御座候。
家内一同缺出し候間誠之進も多分何れへか出候事と存居候處不相見、扨ハ老母を按思候て其邊ニ蹰躇致し候て壓候事と相見へ何共残念至極と申一同涕泣致し、とも泣ニ泣く/\暇乞仕候。委細の體何共聞ニたへ兼候へ共風説之趣ニハ無御座、乍去日頃忠孝を専らミかき候気風ハ人々ニも信ぜられ候間最期迄も斯唱候儀、其上実に老母を案且蹰躇致し居被壓候ニ相違有之ましく奉存候。
其外御状之数々纔之在府ニても渠ニ私ハ粗承候へとも、可惜筆記之暇無之聞捨ニ仕候處、能もケ様ニ被仰送候御漫筆中ニ入候へバ、後世之能烱戒ニ相成候儀と奉存候。云々。
山寺源太夫は東湖の遺族を弔問に訪れ、被災時の状況を聞いている。注目すべきは中段である。
一家全員、屋外へ飛び出し、東湖もたぶんどこかに出たのだろうと思っていたが、姿が見えない。おそらくは老母を心配して屋内でぐずぐずしているうちに圧死してしまったのだろう。何とも残念でしかたないとみんな泣き、私も泣く泣く別れを述べて立ち去った。詳しい様子はなんとも聞くにたえないほど気の毒だが、世間のうわさのような美談ではない。しかしながら、東湖が日ごろから忠孝の行いを心がけていたことは人々に知られていたので、その最期も美談のようにうわさされたのだ。老母を心配して逃げ遅れて圧死したに違いない。
なるほど、そうだったのか。遺族に取材しているのだから信憑性は高いのだろう。人々は受けた印象を膨らませながら伝え広めていく。忠孝に篤い東湖が亡くなり、母親が存命している。その事実をうまく説明するためには物語が必要になるのだ。
ただし、東湖の美談を否定あるいは肯定する決定的な証拠もない。もしかしたら鴨居を肩で支える東湖の最期を目撃した人がいるのかもしれない。しかし、地震発生直後の混乱の中で冷静に観察できた人がいただろうか。美談もよいが、やはり、危険だと判断したら避難するのが大切だ。
参考までに記しておくと、母親の名前は梅子、慶応三年(1867)8月26日に87歳でこの世を去った。武士の家なら婦女子といえども艱難辛苦は尋常のことと、気丈で慈愛深い女性だったという。