集団的自衛権容認に向けて自民党と公明党の協議が難航している。地方議会においても那覇市、大津市など各地で容認反対の意見書が可決されている。安倍首相は強気で閣議決定を急いでいるようだが、どのような結果になるのだろうか。歴史の分岐点にならねばよいが。
朝倉市杷木林田・杷木穂坂に「杷木神籠石(はきこうごいし)」がある。昭和42年12月に採土場に大石が転がり落ちて、土木業者が「どうも古墳の石らしいから見てくれ」と連絡してきたことから見つかった史跡だ。
昭和47年に国の史跡に指定された。写真の場所は杷木神籠石公園として整備されている。平成24年7月九州北部豪雨で被害を受けたそうだ。
神籠石とは列石で囲まれた古代遺跡である。しかも、その石は工具を用いて成形されている。古墳ではない。では、いつ何のために、他と分ける区域を造ったのか。ここは地元の文献『杷木町史』を読んでみよう。
杷木神籠石の大部分に使用されている岩石はすべて安山岩質の火山岩で、凝灰角礫岩と熔結凝灰岩と呼ばれるもので、日田、玖珠、耶馬溪一帯に分布しているものである。現場には岩石はなくかなり遠方から運んできたものと思われる。こうした大規模の工事は地方豪族でできるものではない。北部九州や中国の神籠石もだいたい同じ時代に必要ができて築造したものであろう。
斉明天皇や天智天皇の時代については「日本書紀」のなかにかなり詳細な記述があるのに神籠石については何の記録もないが、白村江の戦いから二十七年後持統天皇の三年(六八九)九月の条に次のような記事がある。
「九月庚辰(ながつきかのえたつ)の朔(つきたち)にして己丑(十日)の日直廣参(ぢきこうさむ)石上朝臣麿(いそのかみのあそみまろ)、直廣肆(ぢきこうし)石川朝臣虫名(いしかわのあそみむしな)等を筑紫に遣りて位記(くらいのふみ)を送り給ひ且新(にい)しき城(き)を監(み)しめき」
さらに持統女帝はその翌月すなわち十月に大和の高安城に幸されている。高安城も天智天皇の六年(六六七)四国の屋島城や対馬の金田城等と共に築かれた朝鮮式山城であることが「日本書紀」に記録されている。
この持統天皇が視察させた筑紫の新城が神籠石式山城のことではないか。もちろん今後の研究にまたなければならない。
神籠石にはかつて神域説と城砦説があり論争が続いていたが、現在は城砦、山城だとされている。古代山城といえば、日本三大国難(!)の一つ、白村江の敗戦に伴う防御体制の構築である。石垣ならば分かりやすいのだが、列石では今一つ迫力がない。立て籠もる拠点として、これでよかったのだろうか。
記録にないという神籠石だが、気になる記述が『日本書紀』にあるという。引用文中の「直廣参」は冠位四十八階のうち14番目、「直廣肆」は16番目である。石上麻呂(麿)は後に左大臣にまで出世する有力官人である。石上氏はもと物部氏で、筑紫へ共に出張した石川氏はもと蘇我氏である。かつてのライバル氏族が並んで新造の城砦を視察した。
大宰府を囲むように造られている神籠石にも彼らは訪れたのだろうか。杷木神籠石の場所は、筑後川沿い、そして博多と日田を結ぶ朝倉街道沿いでもある。また、白村江の戦いに向かった百済救援軍の大本営が置かれた朝倉橘広庭宮にも近い。交通と軍事の要衝として築かれたのだろう。
倭国の百済救援は集団的自衛権の行使であった。結果、倭国は惨敗し、各地に防衛施設を整備せねばならなかった。杷木神籠石もその一つである。集団的自衛権容認の行く末について考えるのにふさわしい史跡かもしれない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。