6月11日、東シナ海の公海上空で中国のSU27戦闘機が自衛隊機に異常接近した。7月7日、盧溝橋事件77周年の式典に習近平国家主席が出席し、「今も少数の者が歴史の事実を無視しようとしているが、歴史をねじ曲げようとする者を中国と各国の人民は決して認めない。」などと発言した。名指しは避けたものの、安倍首相を批判しているに違いない。
日中関係がよろしくないので、「日中もし戦わば」という論をしばしば耳にするが、決してよいことではない。関係を修復するにはどうすればよいかに知恵を絞るべきだ。首相の靖国不参拝か尖閣問題の棚上げか、将来のために何が効果的なのか。
それでも実際、軍事力を比較すると、兵員数では圧倒的に中国人民解放軍となる。装備やら同盟関係やらでは自衛隊とも言われるが、近未来の日中関係において、決定的に国力の差がつくことはまずないだろう。
過去に目を向けてみよう。日清戦争で日本は、「眠れる獅子」と呼ばれた清国に勝利した。近代化に成功した日本、立ち遅れた清国。そんなイメージをもとに、日本人に中国蔑視が広まっていくのは、この頃からのようだ。
しかし、眠れる獅子は、見かけだけではなかった。日清戦争に先立つ3年前、清国の軍事力が日本軍人の度肝を抜いたのである。明治24年6月30日、神戸港に巨大戦艦が姿を現す。近藤常松海軍少将の回想を読んでみよう。(海軍教育局『海軍先輩の逸話、訓話集 其7』1935)
当時、軍艦「摩耶」に乗艦していた近藤少尉は、艦長代理として表敬訪問するため、船を漕いで巨艦「定遠」に近付いていく。
漸やく定遠に漕ぎつけると、支那の当直将校が出て来て、お定まりの文句で挨拶を述べて帰ったのだが、私は定遠、鎮遠を見たのはその時が初めてだった。
(素敵もない浮城だ)
と思った。当時日本には甲鉄艦と云へば扶桑一隻だった。この定遠、鎮遠の大甲鉄艦を見た時には実際度肝を抜かれて了った。
丁汝昌も示威行動の目的は充分達した訳だ。
文中に出てくる「扶桑」が3,717トンであるのに対し、「定遠」は7,144トン、「鎮遠」は7,220トンである。近藤少尉の摩耶は614トンである。彼は「素敵もない」という表現をしたが、「とてつもない」と驚愕しているのだ。清国の海軍力は日本を圧倒していた。
太宰府市宰府二丁目に、清国の戦艦「定遠」の部材を使用した「定遠館」がある。太宰府天満宮ゆかりの衆議院議員、小野隆助によって建てられた。上の写真で門扉として使われている鉄板の穴は砲弾の命中した痕だという。下の写真には艦内の手すりのような部材が装飾として使われている。
日清戦争において「定遠」は、清国北洋艦隊の旗艦として黄海海戦で活躍し、次いで威海衛の防衛に当たっていたが、日本軍の魚雷攻撃で座礁し明治28年2月10日に自沈した。今、威海衛には「定遠」の復元艦が展示され観光資源になっているという。
岡山市北区吉備津の宗教法人福田海(ふくでんかい)の境内に「鎮遠の錨(いかり)」が祀られている。錨だけに不動尊である。
日清戦争において「鎮遠」は、黄海海戦で日本の誇る連合艦隊旗艦「松島」に直撃弾を浴びせている。しかし、威海衛の戦いで日本軍に鹵獲され、帝国海軍に編入される。日露戦争にも出撃している。
これら「定遠」「鎮遠」を主力艦とする北洋艦隊の司令長官が、上記回想にも登場した丁汝昌(ていじょしょう)である。今では語られることのない人物だが、戦前は「敵ながらあっぱれ」の評価の高い人物だった。(岡本瓊二『少年英雄偉人物語』第一出版協会、昭和4)
日本人は支那を目(もく)して勇気のない弱虫ばかりの様に思ってゐますが、決して支那人とてそんなものばかりではありません。ずっと昔のことは暫(しば)らくおいて、日清役(えき)に於ける丁汝昌(ていじょしょう)の如きはまさしく日本人にも劣らぬ、勇気の士であり、愛国者であり、又偉人でもありました。
中国蔑視の書き出しで、子ども向けでありながら、まったく教育的でない。それが時代の空気だったのだろう。これでは、その後の大トラブルは避けられない。
そんな中でも丁汝昌の評価が高いのは、日本の武士道を体現したような見事な最期だったからだろう。黄海海戦では旗艦「定遠」に乗艦し指揮を執っていたが、戦場が威海衛に移ってからは「鎮遠」に乗り換え、光緒21年(1895)1月18日(2月12日)に将兵の助命を条件に降伏し、服毒により自決した。
軍事力に劣等感のあった日本が清国を倒す。調子に乗った国民は優越感を抱くようになる。それ以後の不正常な関係が現代の日中関係にも影響している。本日は、日中関係の転換点に立ち会った二隻の清国軍艦の史跡であった。
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