左遷された菅原道真は、死後20年を経て右大臣に復されるとともに正二位を追贈され、名誉が回復された。西南戦争で決起した西郷隆盛は朝敵となったが、12年後の大日本帝国憲法発布に伴って正三位を追贈され、汚名が雪がれた。では、逆賊とされた平将門の場合はどうなのだろうか。
常総市蔵持の蔵持公民館近くに「平将門公赦免供養之碑」がある。「蔵持建長銘板碑」として市指定文化財(考古資料)となっている。石材は黒雲母片岩である。
三つの碑が並んでいる。右から「平将門公赦免菩提供養之碑」、「平将門公菩提供養之碑」、「鎮守府将軍平良持公菩提供養之碑」である。赦免とは罪を許すことだし、慰霊が公に行われるのは名誉が回復されたことを意味する。詳しいことを常総市・常総市教育委員会の説明板で読んでみよう。
この碑は以前、これより東南方、八〇〇メートルの地、西に富士ヶ嶺、東に筑波の霊峰を望む鬼怒川河畔の御子埋台地(平将門公一族墳墓之地)引手山の一廓にあったが、昭和五年河川堤防改修の際、建設省並びに蔵持地区の人々によって大切に移設されたもので、往古はその数四基を数えたが建長六年の建碑が旧縁によって新石下妙見寺から西福寺へと移されたため今は三基が現存しているものである。
右端の碑は、鎌倉幕府第五代執権北条時頼公が民生安定の一助として、この国の先霊を慰めんものと志し、若宮戸龍心寺境内に豊田四郎将軍の供養塔を寄進したのに続き、将門公の祭祀なおままならざることを聞き及び、同年自ら執奏勅免を得て下総守護千葉氏第15代胤宗公をして供養なさしめたものと云われ、建長五年十一月四日の建碑がこれである。中央にアン(無我)・サ(観音)・サク(勢至)の梵字を配し、婆婆の災禍を遠離せしめ、清浄涅槃の極楽に往生させるものと云う。
中央の碑は、所縁の類講これを欣喜し、結願成就を唱えて正面に大キリク(阿弥陀)を配し建立しに建長六年二月十四日の碑(西福寺在)に続いて大勧進供養を行ったもので建長七年二月十四日の建碑。
左端の碑は、建長八年五月二十四日父良持将軍を供養したものと云われ、このほか兄将弘公のものもあったと伝えられている。
この碑の前は、古くから乗打禁止とされ、必ず下馬して怪我のないように祈る風習があり荒ぶる神として畏敬されていた。地区の人々はこの碑を別名不動石、阿弥陀石と称して崇め、毎年二月十四日の命日にはキッカブ祭りを行ない白膠木(ぬるで)の木で作った刀、槍その他を供えてその慰霊を慰めて来た。
これらの碑が元あったという「平将門公一族墳墓之地」については別途紹介する。碑の移設が昭和5年なら河川堤防改修の所管は内務省だったはずだ。西福寺に移された碑については後述する。
右端の碑は、建長5年(1253)に執権北条時頼が朝廷の許しを得て、供養を千葉氏に行わせたものという。ただし、建長5年当時の千葉氏当主は頼胤である。
中央の碑には建長7年(1255)2月14日の日付がある。2月14日はバレンタインデーではなく平将門の命日である。赤木宗徳『新編将門地誌』(筑波書林)に引用されている飯島六石『結城郡郷土史』によると、この碑には、「赦将軍太郎進阿弥陀仏□□守護□□□」と刻まれているという。天慶3年(940)から315年を経て将門は赦免されたのだ。
左端の碑は、建長8年(1256)に鎮守府将軍平良持、すなわち将門の父を供養したものだという。これらの碑の前は乗打(のりうち)禁止、つまり馬や駕籠に乗ったまま通り過ぎることはタブーとされていた。
将門を追悼する「キッカブ祭」について、村上春樹『平将門伝説ハンドブック』(公孫樹舎)は次のように説明する。
平将門の命日、二月十四日を祭祀日と定めて、白膠木で作った刀剣、槍などを霊前に供える。平将門の戦死は、白膠木の切り株に躓いたため、矢で射られたことに由来するという。
それは気の毒だ。武運つたなく討死したのであって、逆賊ゆえに必然的に討滅されたわけではない。
あともう一つ、建長6年(1254)の碑は西福寺にあるという。さっそく訪れてみよう。
常総市新石下の壽廣山観音院西福寺の門前に「平将門公菩提供養之碑」がある。「西福寺の建長銘板碑」として市指定文化財(考古資料)となっている。石材はやはり黒雲母片岩である。
この碑について、常総市・常総市教育委員会の説明板は、建長五年の勅免について述べた後、次のように言う。
建長六年将門公の命日は二月十四日に、このことに歓喜した縁者伴類多数の講中が、豊田、小田(四代時知)両氏の助力を得て、建碑供養を行ったものであるという。
やはり蔵持の板碑と同類だと分かる。豊田氏や小田氏など関東の武者にとって、将門は顕彰すべき先駆者だったのだろう。
ただ、面白いことに、この板碑には次のような後日談がある。出典は『平将門伝説ハンドブック』である。
縄かけ炎石
御子埋の碑一基は、平将門の崇敬した妙見菩薩を祀る妙見寺に移された。その後、妙見寺が廃され、現在は、西福寺に建てられている。かって、江戸の旗本が縄をかけ、持ち去ろうとした時、炎を吐いたというので、恐れて逃げたという話を伝えている。
説明板によれば、このオカルトチックな話は天保年間の出来事だという。また、この石に縄をかけると病が治るとも言われているようだ。
以上紹介した4基の碑がもとあった場所がここである。
常総市蔵持に「平親王将門公一族墳墓之地」がある。
この辺りは「みこのめ」と呼ばれ、かつては御子埋、今では神子女と書き表す。地名の由来について、日本の伝説37『茨城の伝説』(角川書店)を読んでみよう。
天慶三年(九四〇)に将門が北山で戦死すると、その死体をすぐにここへ運んできて、埋葬したといわれている。ここには良持と兄の将弘も埋葬されていたという。御子埋は良持の子という意味だそうだ。
なるほど、やはりここは平将門公と父と兄の埋葬地、「一族墳墓之地」だったというわけか。この地の説明板(常総市・常総市観光協会設置)で、もう一度おさらいしておこう。
この地及び西方一帯の丘りょう引手山と云い、台地全体を俗称して御子埋と云う。この地点には古くから雲母片岩質の巨石板碑群があり、碑は「馬降り石」と呼ばれ前を通るときは必ず下馬して怪我のないように祈る風習があった。又、御子埋に接する引手山の一廓は乗打すると落馬すると恐れられ、手綱を引いて通り過ぎなければならないと畏敬されていた。
この地はそもそも平将門公の父従四位下鎮守府将軍平良持公並びに兄将軍太郎将弘公等の墳墓の地であったが、天慶三年二月十四日将門公石井の地に戦死するに及び豊田の郎党主君の遺骸を葦毛の馬に乗せて秘かに遁れ来たり、泣く泣く兄父の墓側に葬り悲しかりし当時の有様を語り伝えたのが、謎の御子埋物語であるという。
貞盛、公連等の豊田に対する掃討は残虐を極め、その供養も思うにまかせぬこと三百十余年。時に鎌倉幕府五代執権北条時頼公ありてこの事を聞かれ給い祖志を同じくする身の不遇を憐れみ、自ら執奏して勅免を受け、下総守護職千葉氏第十五代胤宗公に命じて一大法要を営ません、建長五年十一月四日の建碑これなりと伝う。
これより連年将門公所縁の類講らによる建碑供養の大勧進が行われ、良持、将弘両公の菩提に及ぶ、蔵持部落では、この勅免供養の碑を不動石或いは古不動様と呼び慣わし、例年二月十四日将門公の命日を祭祀日と定め「キッカブまつり」を行って一族の遺霊を慰めて来た。今に現存する古碑は四基で、一基は新石下の寿広山観音院西福寺に、三基は蔵持の阿弥陀、観音両堂の傍らに安置されている。
将門の名誉回復は、三百年の時を経て建長年間に執権北条時頼によって行われた。めでたしめでたしと終ればよいのだが、そうでもない。吉川英治の傑作『平の将門』の終わりに次のような注目すべき記述がある。
江戸の神田明神もまた、将門を祠ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。
初めて、将門の冤罪を解いて、その神田祭りを、いっそう盛大にさせた人は、烏丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、
「将門を、大謀叛人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」
と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を、勅免祭りともいったという。
朝廷の許しが得られたのが寛永3年(1626)である。とすれば686年ぶりに冤罪が解かれたのか。しかし、話はこれで終わらない。明治7年に教部省の指示により、逆賊将門は神田明神の祭神から外されることとなった。
現在はだいこく様、えびす様と並んで将門が主祭神として祀られている。ただし、これは昭和59年(1984)のことである。とすれば1044年ぶりに名誉が回復されたということだ。
なにせ、逆賊の中でも「新皇」と皇位を僭称した者は将門だけである。それだけ罪が重いということか。いやいや、将門公を英雄視する関東の武士団や江戸っ子たちにとっては、勅免など関係なかった。新しき世を創ろうとしただけであって、悪事など何もしでかしていないのだから。
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