常総市の旧石下町に旨い酒「紬美人(つむぎびじん)」がある。冬に蔵元を訪ねたので「只今、醗酵中」というにごり活性生酒を買い求めた。酒と炭酸の絶妙なコラボ、醗酵とはこういうことか。寒い中、自転車でペダルを回したかいがあったというものだ。
蔵元のおかみさんに教えていただいた。東日本大震災で屋根瓦が落ちたこと、それでもがんばって酒造りを続けていること、腕が良くて器用な蔵人がいること、この地で盛んだった結城紬が銘柄の由来にもなっていること。
ここ旧石下町は結城郡の一部で絹織物の生産で有名だった。「石下紬」とか「いしげ結城紬」として知られている。さらに歴史をさかのぼると、明治29年までは豊田郡だったのである。
これが有名な「豊田城」である。正式には常総市地域交流センターといい、常総市新石下にある。この町のシンボルである。
本物志向の城郭愛好家からお叱りを受けそうな天守閣風建築物である。平成4年の築造で、城跡に復興されたたものではない。登閣はしていないが48.5mの高さで随分と眺めが良いそうだ。このあたりは心が解き放たれるくらいに広々とした関東平野である。この日は大気が澄んでいて、遠く富士山が見えた。その写真がこれだ。
肉眼では矢印の下に確かに富士山が見えたのだ。そして、ここが本物の「豊田城跡」である。常総市本豊田にある。
この城跡には遺構がない。それでも旧石下町が地域交流センターを「豊田城」という愛称で呼んだのは、この城跡に対する強い思いがあるからだろう。かつて栄えて今はなき豊田城を現代に甦らせ、地域のアイデンティティを確立しようとする試みなのだ。
豊田城がなぜ地域のアイデンティティとなりうるのか。碑のそばに常総市の長文の説明板があるので読んでみよう。
これより東南方河川を含む一帯の地
豊田城は、後冷泉天皇の永承年間(一〇四六-一〇五三)、多気太夫常陸大掾平重幹の第二子四郎政幹が豊田郡(石下町、千代川村、下妻市、糸繰川以南、八千代町東南部大半、水海道市大半)を分与されて石毛(若宮戸及び向石下)に住し、石毛荒四郎又は赤須四郎と名乗り、周辺一帯に亘ってその勢威を張っていたが、前九年の役にあたり源頼義、義家父子に一族郷党を率いて、千葉常胤らを共に従い、阿武隈川の先陣を始め得意の騎馬戦法を駆使して数度の大功を立て、安倍頼時、貞任、宗任親子を討って凱旋、天喜二年(一〇五四)重き恩賞の栄に浴して豊田郡(江戸期以降の岡田・豊田両郡)を賜り、鎮守府副将軍に列す。名を豊田四郎政幹(基)と改め豊田、猿島両郡の願主として君臨し、館を若宮戸及び向石下と構えるも、後に子孫居所を変え十一代善基、台豊田(今の上郷)よりこの地に城を築いたのが始まりといわれる。
これよりは豊田氏の勢いは大いに奮い、漸次郭の城を整え本城、中城、東城の三館を以て構成広く常総を圧した。
録するに豊田氏の源平相剋の時代にあって源氏に属し、平氏の栄華を西海に追い、文治五年(一一八九)兵衛尉義幹、常陸守護職八田知家に従い奥陸に藤原泰衡を討ち、建保元年(一二一三)同幹重、泉親平の党上田原親子三人をとりこに、宝治元年(一二四七)三浦泰村の乱に連座し、一時鎌倉の不興を買いしも、武威はいよいよ高揚した。
南北朝時代は南朝に与し、北畠親房、護良親王を小田城、関城に擁して戦い、後に高師冬と和解して足利家に従属する。
戦国時代に入り、各地に群雄が割拠するや常総の風雲も急を告げ、対処するに豊田氏は金村城、長峰城、行田城、下栗城、吉沼城、袋畑城、羽生城、石毛城等の支城及び常楽寺、報恩寺並びに唐崎、長萱、伊古立、小川らの諸将を託したが、結城、佐竹の大勢力に次第に領域を狭められつとに威勢の後退を見るに至った。
二十一代政親、二十二代治親の代に至り、殊に下妻城主多賀谷重政、政経の南侵甚しく小貝、長峰台、蛇沼、加養宿、五家千本木、金村の合戦など戦うこと数十度に及ぶ。
もとより要害堅固の城に、武勇の家柄とて、一ときたりとも敗戦の憂目を喫することはなかったが、天正二年縁戚にして盟主なる小田氏治が佐竹勢の為に土浦城が滅亡するに及び、翌天正二年(一五七五)九月猛将弟石毛次郎政重の城中頓死に相次ぎ、治親自身もまた十月下旬の一夜家臣の謀反に遭って毒殺のあいない最後を遂げ、始祖四郎将軍政幹以来五百二十有余年に亘って栄えた常総の名家豊田氏も遂に戦国の露と消えたのである。
一説に、夫人及び二子は、真菰に身を包み小舟で武蔵草加に遁れたという。
爾来、城は二十余年の間多賀谷重経、三経の居城となったが、慶長六年(一六〇一)二月二十七日、父政経、徳川家康に追放されて廃城となった。
星霜、ここに三百七十余年、土着の縁者数多しと雖も、城址は一面圃場に姿を変じ、不落の要害も河川の改修にその痕跡を断つ。
今はただに往時を偲ぶよすがとて、僅かに御代の宮、鎧八幡、将軍の宮、城地の字名に過ぎず。
全てはこれ天と地と太古悠久たる小貝川の流れが知るのみである。
昭和四十九年十月二十一日 旧石下町
桓武天皇-葛原親王-高見王-平高望-良望(国香)-繁盛-維幹-為幹-
重幹-豊田四郎政幹(初代)-善幹(十一代)-元豊(十七代)-
政親(二十一代)-
・治親(二十二代)-治演 武蔵豊田の祖
・政重(石毛氏の祖)-正家
・政忠(東弘寺忠円)
他国者には一読しただけでは理解ができない。それだけ詳細で貴重な情報である。要点をまとめながら、さらに解説しよう。
平将門を倒した平貞盛の子孫で最も著名なのは清盛を輩出した伊勢平氏である。貞盛の弟繁盛の子孫では大掾(だいじょう)氏が知られている。「多気太夫常陸大掾平重幹」までの血脈は同一だが、その子政幹(まさもと)が豊田氏の祖となる。
解説文中の「兵衛尉義幹」は惣領家多気大掾氏6代目の人物、「幹重(もとしげ)」は源頼朝の頃に活躍した御家人で豊田氏4代目の人物である。豊田氏12代目(解説文では11代)の善基(よしもと)が正平年間にこの地に城を築いた。これが豊田城の始まりである。
以来、豊田氏はこの城を本城として戦国の世を渡っていく。最終段階では、小田氏・豊田氏VS佐竹氏・多賀谷氏の構図で対立していたが、豊田氏20代目(解説文では22代)の治親(はるちか)が天正三年(1575、解説文の二年は誤り)に多賀谷氏によって滅ぼされる。
「夫人及び二子は、真菰に身を包み小舟で武蔵草加に遁れた」とのことだが、草加市柿木町の女体神社には次のような伝承がある。(草加市HPそうか昔話<21>女体神社(柿木町)「難を救った不思議な力」、広報そうか第379号昭和57年3月5日号)
不思議な力で守られながら、豊田氏の一行は柿木に落ちのびてきました。そして、この柿木を安住の地と定めると、自分たち一行を守ってくれた女体神社に感謝し、筑波山の方向に向けて女体神社を建立しました。また豊田氏は、共に逃れてきた家来や領民と力を合わせ、この柿木の開拓の祖となったということです。
現在でも柿木では、筑波山に代参を立てています。
ここにも豊田氏にアイデンティティを求める人々がいた。戦国時代が遠い過去に思えなくなるくらいだ。豊田氏の本城である豊田城の石碑はもう一つある。これには戦国大名豊田氏の終焉が詳らかに語られている。上の写真でやはり矢印のあたり、鉄塔の右手にある。
この碑は「中城土地改良事業竣工記念の碑」で、常総市本豊田にある。
この地は常総の山野に君臨した名門豊田氏の城跡である。十二代善基は、この地一帯に築城して本拠地となし、若宮戸に祈願寺として開基した龍心寺を現在地に建立し隆盛を誇った。
やがて戦国乱世の弱肉強食の時代に至り、新興勢力多賀谷氏の南侵激しく豊田領は風雲急を告げた。しかし豊田城は堅固であり尋常の攻めでは手中に落ちず、多賀谷は偽って和睦を申し入れ、重臣の白井全洞に金村雷神宮百ヶ日参詣を命じた。
社参した全洞は、雷神宮境内に於て豊田老臣飯見大膳を待受け、言葉巧みに近づき茶の接待を受け、大膳の息女を孫嫁に申し入れて親族の盃を交わし、豊田側不利を説き、寝返りの腹をさぐった。
主家の衰微ゆく様を憂い、身の行末を案じていた飯見大膳は、白井全洞の「城主治親を討って返り忠すれば豊田城を分与する」との甘言に乗り、主君虐殺を決意し天正三年九月、十三夜の月見の宴に事よせて主君治親を毒殺せんと私宅に招請した。
豊田氏の守護神金村雷神宮は、吉凶の変事ある場合は必ず鳴動があるといわれ、折も折奥殿に震動が起り、宮司の「凶事の起る恐れあり」との具申があった。まもなく石毛城より城主政重頓死の知らせがあり、月見の宴は中止となったが再び十月下旬に入り、大膳は策をめぐらし私宅にて茶会を催した。
治親夫人は、不吉な予感による胸さわぎのため出向くことをとどまる様懇願したが、「飯見は我が家臣なり、別心あるべからず」と一笑に付し、家臣少数を従え大膳宅におもむき、毒酒を盛られて悲運の最期を遂げ、豊田城は逆臣により乗っ取られた。
豊田の遺臣は石毛城に拠り抗戦するも、逆臣の身柄引き渡しと次郎政重の遺児七歳の太郎正家の助命を条件に下妻に降った。
多賀谷政経は大膳を呼び出し、縄掛けて豊田・石毛勢に引き渡した。豊田・石毛勢は大膳を裸身で金村台に連れ出し、主殺しの大罪人として金村郷士草間伝三郎の造った竹鋸を以って挽き割り、大膳一族三十六人の首をはね主君の無念を晴らした。(後略)
昭和五十七年十月 将軍祀りの日 石下町長 松崎良助撰文
豊田氏の系図
桓武天皇-葛原親王-高見王-平高望-国香-
・貞盛
・繁盛-維幹-為幹-重幹-将基(豊田氏の祖)-成幹(2)-基善(3)-
基重(4)-基道(5)-基友(6)-基富(7)-
・為基(8)
・基将(9)-朝善(10)-基安(11)-善基(12)-治基(13)-親治(14)-
豊基(15)-常演(16)-元豊(17)-基政(18)-政親(19)-
・治親(20)-治演
・政重(石毛城主)-正家
・忠円(東弘寺住僧)
善良な主君を謀略によって亡き者にするとは。今に残る無念さが伝わってくるようだ。後略の部分は土地改良事業のことが記されている。また、最後の系図が詳しいので理解の助けになる。
碑文によれば、豊田城が逆臣により乗っ取られた後に、豊田の遺臣が拠って抗戦したのが石毛城だという。行ってみよう。
常総市本石下の八幡神社に「石毛城跡」の石碑がある。
「八幡神社」の標柱の右に少しだけ写る黒光りする石碑に、豊田氏の歴史が詳細に記されている。既述の内容が多いのだが、重複を恐れず引用しよう。
石毛城は、天文元年(一五三二)豊田城主四郎政親が、宗祖将軍将基の遺霊を祭祀させ、近年豊田領への蚕食押領甚だしき、下妻多賀谷氏の抑え、豊田本城の前衛として構築し、石毛の地(一万貫)を分封し、次子次郎政重を拠らしめたと伝えられている。-天文三年織田信長生る-
豊田家宗祖将基(赤須四郎)は、桓武天皇第五皇子葛原親王八代の後胤常陸大掾平重幹の第三子で、前九年の役(一〇五一)に源頼義、義家(八幡太郎)父子に従軍し阿武隈川の先陣乗りの功を立て康平五年戦功により豊田・岡田・猿島の三郡を賜る。さらに後三年の役(一〇八三)にも従軍、功により常陸多賀郡の地(現北茨城市)を賜り、孫政綱を拠らしめたと伝えられている。(現在北茨城市に豊田城跡あり)
豊田氏其の勢盛んなるとき、豊田三十三郷、下幸島十二郷、筑波郡西部を領有し、十一代基安は南常陸に侵攻し、弟基久を牛久に分家(南北朝争乱の頃)する等、常総四隣を圧するものがあった。結城家は重臣多賀谷氏下妻に配し小田・豊田の抑えとした。やがて戦国時代に突入、下剋上・新興勢力の台頭あり、とみに勢力を増大した多賀谷氏は主家結城氏より独立を図り、豊田領侵略の機を窺う。
豊田氏は自衛上、先ず隣城手子丸(現豊里町)の菅谷氏と婚し東方の憂いを除き、多賀谷に対する備えとして十七代元豊は三男家基に、八幡太郎拝領の甲冑を与えて「これ、我家の至宝なり。今これを汝に伝う。袋畑は下妻の咽喉なり。この家宝と領地を死守せよ」と命じ、豊田領最北端の袋畑(現下妻市)に封じ、豊田本城の第一陣とした。
豊田家第十九代政親は常陸小田城主氏治の妹をめとり、親族大名として同盟関係に入り、さらに横堤東端、今の県立石下高等学校(現在の地名館出)附近に出張館を置き備えた。
豊田氏必死の防戦にもかかわらず、多賀谷の攻勢激しく、豊田の旗下行田館(現下妻市)、下栗常楽寺(現千代川村)、総上の袋畑右京、四ヶ村の唐崎修理、長萓大炊、伊古立掃部、豊加美の肘谷氏などを相次いで降し、又小田の旗下にあった吉沼城を攻め城主原外記、其の子弥五郎を殺し、さらに館武蔵守の守る向石毛城を攻め落す。
小田氏治を伯父とする石毛政重は、元来その性勇猛にして、兄治親とともに豊田・石毛を併呑しようと来攻する下妻多賀谷の大軍を永禄元年(一五五八)長峰原(現豊里町)、蛇沼(現豊田)に迎え撃ち、小田氏の援軍を得てこれを撃退す。-この頃上杉謙信と武田信玄川中島に戦う-
永禄四年石毛政重は豊田・石毛の連合軍五〇〇余兵を率いて、宍戸入道と相謀って、加養宿より古沢宿(現下妻市)へ進撃するも負傷し、多賀谷城(下妻城)を目前にして帰城す。-永禄三年今川義元、信長に討たる-
永禄六年下妻多賀谷軍の岡田、猿島進攻に抗して、石毛政重は廻文す。古間木城主渡辺周防守を始めとする岡田、猿島勢これに応じ、三四〇〇余兵を以て五家千本木(現千代川村)に布陣し五〇〇〇余兵の下妻勢と激戦、勝利のうちに和睦(結城晴朝の仲裁)する等積極果敢なるものがあり、豊田本城の前衛としての責を善く果たす。
天正元年(一五七三)再び攻め寄せる多賀谷軍を金村台(豊里町)に迎え撃ち、小田の援軍を得てこれを破る。-この年甲斐の武田信玄卒-
多賀谷軍の攻勢激しく、豊田城・石毛城風雲急を告げる。小田・豊田・石毛は力を合わせ戦うも、守るに精一杯で新進気鋭の多賀谷氏を打倒する程の気概はなかった。-天正二年小田城落城-
常総の諸豪、風を望みて佐竹・多賀谷の膝下に屈し状勢悪化を辿る。天正三年九月十三日、あたら勇将政重も石毛城中にて脳卒中の為、敢えない最後を遂げ、戦乱一期の花と散る。
豊田城主治親の落胆一方ならず、城の守り諸事の手配を家臣に命じた。宗祖将基以来五百有余年、さしも栄えし豊田家も命運の尽きる処か、弟政重の死に遅れること一ヶ月余り、治親も又、叛臣の謀に遭って毒殺され、豊田城は多賀谷軍に乗取られる。治親夫人と幼い二子は真菰に身を包み、小舟に乗って高須賀館(現谷田部町)を経て、武蔵柿木(現埼玉県草加市)に逃れたという。
その夜、豊田家忠臣血路を開き、急を石毛城に告ぐ。
多賀谷氏は時を移さず、重臣白井全洞を将に七〇〇余兵を以て石毛城に攻め寄せる。
豊田・石毛勢二五〇余頑強にして攻めあぐみ、一旦若宮戸常光山迄退き、援軍五〇〇余を加え数日間、死闘を繰り返す。
豊田・石毛勢形勢非なるを以て、相謀り七歳の幼君太郎正家の安泰と主殺しの大罪人飯見大膳の引渡しを条件に下妻に降る。-この年長篠の合戦あり-
石毛太郎正家は叔父東弘寺忠圓に養育され仏門に入り、のち、石毛山興正寺中興の祖として天寿を全うした。寛永十二年(一六三五)六月十九日歿、法号石毛院殿傑山宗英大居士。
石毛城は多賀谷氏一族の拠る処となったが、天正十三年、多賀谷家の内紛により、築城五十四年にして廃城となり、後顧の憂いを除くため焼却されたと言われている。-天正十年織田信長本能寺にて自刃-
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いに多賀谷氏西軍(石田方)に与するを以て翌年徳川家康に改易追放され、石毛地方は徳川の天領となり、多賀谷氏の豊田・石毛領支配は二十七年にして終る。
現在の八幡宮は、慶長二十年(元和元年)旧臣等宇佐八幡宮を勧請し、城址に創祀したものと伝えられている。-この年大坂城落ち秀頼母子自刃す-
落城の光陰いま見る四百有余年の星。所縁の苗裔数ありと雖も、過ぎたるは多くを語らず。城地は一望宅地化して、城跡の面影、老榧の残照土塁の一辺に過ぎず、字名の一端に窺い知るのみ。嗚呼、行雲流水ゆきて帰らず、知るはこれ極月除夜の鐘の音、諸行無常と響くなる哉。
昭和五十九年十一月 八幡神社大例祭日 石下町長 松崎良助撰
これによれば石毛城は、豊田氏19代目政親が天文元年(1532)に、北方下妻の多賀谷氏の抑えとして築き、次子政重に守らせたとのことだ。
天正三年(1575)に城主政重が急死し、本城豊田城が多賀谷氏の謀略によって落とされた後、豊田勢が最後まで抵抗したのがここ石毛城であった。数日間の戦いの後、豊田勢は力尽きて降伏し、まだ幼かった城主正家は仏門に入った。
石毛城とここを舞台とした激戦は、遥か遠い昔の出来事となり、それを偲ぶよすがも少なくなってしまった。碑文の最後では、平家物語のような美文調で時の流れが感慨深く記されている。
各地の史跡を巡っているが、石毛城跡のような巨大な石碑は見たことがない。地元の方々の気合いが伝わってくるようだ。しかし、これで驚いてはいけない。さらに立派な記念碑があるのだ。
常総市向石下(むこういしげ)の将門公苑は「向石毛城址」である。
この地は平将門の「豊田館址」である。将門の生れた場所と言われている。写真の巨大な石碑の右側に記されている将門関連の内容は改めて詳述するであろう。ここでは左側には豊田氏の向石毛城について紹介する。
この地に拠った坂東の風雲児平将門戦死後、その荘園は平貞盛の領有となる。貞盛は所領を弟繁盛に委任し、繁盛の子維幹を養子として全領を伝え、伊勢の国に領地を持って伊勢平氏となる。(九代後、清盛出現)常陸大掾平維幹の孫重幹の第三子政幹、下総豊田郡石毛荘(若宮戸)に住し赤須四郎(石毛荒四郎)と称す。
陸奥の安倍頼時・貞任叛し前九年の役起こるや、赤須四郎、豊田郷兵を率いて源頼義・義家の追討軍に参陣。阿武隈川の先陣をはじめ、数多くの功により康平五年(一〇六二)、後冷泉天皇より鎮守府副将軍に任ぜられ神旗(蟠龍旗)・豊田郷を賜り、名を豊田四郎平将基と改め、ここに豊田氏の祖となる。
将基、館を天然の要害「豊田館」跡に構築して、長子石毛太郎広幹を拠らしめ豊田氏隆盛の礎とする。これ向石毛城の起源なり。また次子三郎成幹を台豊田に配す。その後、奥州の清原氏叛し後三年の役となるや再度豊田郷兵を派遣、その功により常陸多賀郡の地を賜り、館を築き孫政綱を拠らしめる(現北茨城市に豊田城址あり)。豊田氏勢威盛んなるときは豊田三十三郷、下幸島十二郷、筑波郡の西部を領有し、常総の山野に威武を張った。
豊田郡は古来、大結牧(古間木・大間木)が置かれ馬の名産地であった。豊田氏は源頼朝に各地の地頭らが馬を献上したときも、最良の馬を献じ面目を施している。また、将軍頼朝出向の際には馬牽、騎馬、随兵として一族郎党を率き連れ従うなど信任厚く、寺院造営では雑掌奉行にも任ぜられている。その後、宝治元年(一二四五)、三浦泰村の乱に連座し豊田氏幕廷に勢力を失う。
世移り、まさに弱肉強食の戦国時代。向石毛城は関館氏の一族、館武蔵守が支配する。
永正年間(一五〇四-二一)、時の城主武蔵守宣重自然の地形を、より要害たらしむべく塁を高め、堀を深くし水を引き入れ、橋梁をもって城地を結び大手を拡げ、南に一の塚、北に二・三・四の塚の見張血を設けて防備を固め、豊田城と東西相呼応して守りを固くす。
下妻三十三郷を手中にした新興勢力の多賀谷氏は強豪佐竹氏と結び、小田・豊田領に侵入し領域拡大を計る。天文元年(一五三二)、豊田城主十九代政親石毛城を築き、二男次郎を石毛次郎政重と名乗らせ分封し豊田本城の前衛とす。-天文三年 織田信長出生-
天文年間、下妻多賀谷勢は突如として向石毛領に侵入北辺の前衛第一の陣四の塚(杉山)は弓矢の攻撃に全員討死。三の塚、二の塚も次々と破られ急を本城に知らせるいとまもなく、正月三日、祝宴の一瞬の隙を突かれて焼き打ちされ向石毛城は落城。城主武蔵守は自刃。嫡子播磨は外舅の古間木城主渡邉周防守を頼って落ち、その養育を受ける。重臣増田、松崎、大類、斎藤、草間、軽部等石毛を頼る。ここに向石毛城は廃城となる。
天正三年(一五七五)、豊田市二十代(一説に二十二代)城主治親逆臣に毒殺されて豊田城落城。同四年、古間木城も多賀谷政経の攻略する処となり、城主渡邉周防守討死、播磨は多賀谷に降る。後、多賀谷氏関ヶ原の合戦に佐竹氏とともに西軍に与するをもって領地没収追放される播磨は仏門に入り向石毛城跡に般若山法輪寺を再建し、祖先の菩提を弔い中興の祖となる。
思えばこの地、坂東武士発祥の地として中央・地方の政治史に一大変革をもたらし武家社会創設の遠因となる。一世に名を馳せた武夫の夢も今は僅かに御殿、水泳人、弾正、御城、西館、一盃館、大手、城廻等の字名と、土塁の一辺に痕跡をとどめるのみ。
ここに基金を寄せられた人々に感謝の意を表し、願わくは先覚の魂魄安んじて永劫にとどまり、郷土の発展にあずかって力のあらんことを。
昭和六十二年二月十四日 石下町長 松崎良助撰
向石毛城は豊田氏初代の将基が構築し、長子広幹を拠らしめたという。前九年の役の頃である。次子成幹は台豊田に配される。今のつくば市上郷のあたりである。南北朝期に豊田城へ移るまで、台豊田が豊田氏の本拠となったようだ。
戦国期は豊田勢の館武蔵守が城を守っていたが、天文年間に多賀谷勢により落とされ廃城となった。ここでも、時を経て僅かに残る痕跡だけが城のあったことを伝えていると、情感を込めて語られている。
この美文調の長文解説は、松崎良助氏の撰文である。松崎氏は昭和47年から平成4年までの長きにわたって石下町長を務められた人物である。豊田氏に関わる城跡の解説文を自ら撰し、豊田城まで築城なさった。豊田氏を顕彰することをとおして、石下町のアイデンティティを確立しようとされたのだろう。
おかげで旅する者は石下と豊田氏の深い関わりを学ぶことができた。ありがたいことである。ただし、イベントとしては「石下将門まつり」が有名で、平将門のネームバリューが勝っているようだ。だからこそ、松崎氏は豊田氏に光を当てたかったのかもしれない。
最後に豊田城の支城をもう一つ紹介して、長い記事を終えようと思う。実は私はこの日、東から自転車に乗ってやってきたので、豊田氏関連ではこの石碑に最初に出合ったのだった。解説を読んでも最初は何のことかさっぱり分からなかったが、今ではおよそのことが理解できる。
つくば市上郷に「長峰城址」の石碑がある。揮毫は豊里町長の野堀豊定氏で、豊里町教育委員会指定の史跡であった。今はつくば市指定の史跡である。
碑の裏面に解説が刻まれている。読んでみよう。
康平五年(一〇六二)豊田家興るや、常陸国筑波郡の上郷は台豊田と呼称され、以来中世約五百年その勢力下にあった。長峰橋のたもとから北に峰状にのびる長峰は字上原の台地が小貝川に臨む断崖絶壁の要害の地であり、縄文以来の古代の住居がある。
戦国乱世の文明十一年(一四七九)豊田家十七代元豊が対岸の下総国豊田郡豊田郷にあった豊田城の支城として長峰城を築き、長峰右近将監が城主となった。永禄元年(一五五八)には長峰原合戦があり、天正元年(一五七三)の金村台合戦を経て、その後、廃城となった。
以来四百有余年の星霜を経るもなお城壕あり。往時のつわものどもの歴戦の跡をとどめている。なお上郷山宗徳院は将監の開基にて創建当時は長峰山即徳院と称してこの地にあった。昭和五十八年一月吉日長峰橋の開通にあたりてこれを刻む。
昭和五十八年一月吉日建立
長峰原と金村台の両合戦とも豊田勢と多賀谷勢の争いだったが、豊田勢が多賀谷勢を退けた。おそらくは天正三年の豊田城落城と命運をともにしたのであろう。
長峰橋の下を流れる小貝川のこちらはつくば市、橋を渡れば旧石下町(常総市)である。長峰城址がもし石下町域であったなら、巨大な石碑になっていたのかもしれない。
豊田氏と平将門なら、観光的には一代の英雄将門、そりゃだろう。しかし、この地に根付き領民とともに地域を開発してきたのは豊田氏である。ある時は小貝川の氾濫から、またある時は多賀谷勢の攻撃から、地域を守ってきた。
江戸期には入組支配となって地域の顔となる領主を持たなかった石下にとって、われらのお殿様とは豊田氏二十代である。地域交流センターが豊田城と呼ばれる意味はそういうことであり、その存在意義は大きい。
ご子孫の方にコメントをいただき、光栄に存じます。
血脈と伝承が誇りをもって受け継がれていることに、頭が下がる思いです。
今後の益々のご発展をお祈りしております。
投稿情報: 玉山 | 2022/06/05 21:08
一族の末裔としてこの文章をまとめてくださった事に感謝致します。
私の父は柿の木町の出身です。詳しく聞いたことは無いのですが柿の木町は米作りと畑を耕し生きてきたそうです。私のご先祖様の墓も、もちろん柿の木にあり今は静かにわたしたちを見守ってくれています。
近いうちに豊田一族の再起をかけ草加市の更なる発展の手助けのような事が出来たらと思ってます。
もちろん常総市、祖地への思いも忘れてはいません。
投稿情報: ads | 2022/06/04 21:37
楓さま
ご覧いただき光栄に存じます。
今も地域の誇りとして、ご供養を続けていらっしゃるのですね。時を越えて絆を大切にされていることに敬意を表したいと思います。
投稿情報: 玉山 | 2021/05/24 20:48
現在も石下地区では、豊田将軍が毒殺されたことを偲んで宴をします。深く知る事が出来ました。ありがとうございます。
投稿情報: 楓 | 2021/05/23 21:13