大河ドラマ「花燃ゆ」の視聴率が低迷しているそうだが、明治維新の精神的支柱である吉田松陰先生の生涯を知ることができるだけでも、お得な番組と言える。
松陰先生は時代や社会の枠に収まらない破天荒ともいえるお方で、ドラマに描くにうってつけだと感じる。ただし、幕府要人暗殺によって問題を解決しようとするなど、テロリストともいえる一面もあった。
昨今の事件を思えば、テロは憎むべき犯罪に他ならない。しかし、良くも悪くも政治を動かす手段となってきたことは否定できない。
加波山の山頂に加波山事件の「旗立石」がある。
明治期前半の大きな政治的潮流である自由民権運動は、明治14年(1881)に転機を迎える。明治十四年の政変と国会開設の詔である。この政変によって大蔵卿となった松方正義は緊縮財政を推進する。松方財政はデフレーションを引き起こし、米価下落によって中小農民層は没落することとなる。
また、国会開設の詔により自由党が結成されるが、政府は集会条例を強化し言論の自由を弾圧した。党内の急進派は農民の不満を背景に直接行動によって政府の打倒を企図する。これが各地で発生した激化事件である。
この時期の政府の姿勢を体現する人物が、鬼県令の異名をとる三島通庸(みしまみちつね)であった。福島県令時代の明治15年(1882)に起きた福島事件では、河野広中等を国事犯として処罰する。
その三島が栃木県令となり、明治17年(1884)に県庁を栃木町から宇都宮町に移転し新庁舎を建設した。その落成式において、三島県令とともに出席した政府要人を暗殺しようとしたのが、今日紹介する加波山事件の動機である。
同志を糾合していく中で、暗殺成就の後は足尾銅山に立てこもり、さらには東京に進出して政府転覆を目指すという壮大な構想に発展していく。必殺アイテムは爆裂弾である。爆裂弾はこの時代の呼称であり、今でいう爆弾である。栃木県の鯉沼九八郎(こいぬまくはちろう)が、ロシアのアレクサンドル2世暗殺を参考に独自に開発したものである。
一同は栃木県庁の落成式が9月15日との情報を得たが、時間も資金もない。そこで9月10日、河野広中の甥広躰(ひろみ)、門奈茂次郎(かどなしげじろう)らは、東京神田小川町で質屋強盗を決行する。しかし、失敗に終わり門奈が捕縛される。
そして12日には鯉沼が自宅で爆裂弾を暴発させ左手首を失う重傷を負う。しかも、15日の落成式は延期になったという。万事休した一同は、各地の同志の呼応を期待して、加波山で挙兵することとなる。23日のことである。
挙兵メンバーは、富松正安(茨城)、玉水嘉一(茨城)、保多駒吉(茨城)、杉浦吉副(福島)、三浦文治(福島)、五十川元吉(福島)、山口守太郎(福島)、琴田岩松(福島)、天野市太郎(福島)、草野佐久馬(福島)、原利八(福島)、河野広躰(福島)、横山信六(福島)、小針重雄(福島)、平尾八十吉(栃木)、小林篤太郎(愛知)の16名である。
山上に「加波山本部」「圧制政府顚覆」「自由之魁」「一死以報国」と大書された旗が翻った。さらに、琴田と平尾が担当して次のような格調の高い檄文が作成されたのである。ここに革命は始まった。
抑も建國の要は衆庶平等の理を明かにし各自天與の福利を均く享るにあり。而して政府を置くの趣旨は人民天賦の自由と幸福とを扜護するにあり。決して苛法を設け壓逆を施こすべきものにあらざるなり。然而今日吾國の形勢を観察すれば外は條約未だ改まらず内は國會未だ開けず爲に奸臣政柄を弄し上 聖天子を蔑如し下人民に對し収歛時なく餓莩道に横はるも之を檢するを知らず其惨状苟も志士仁人たるもの豈之を黙視するに忍びんや。夫れ大厦の傾けるは一木の能く支ふる所にあらずと雖も奈何ぞ坐して其倒るゝを見るに忍びんや。故に我々茲に革命の軍を茨城縣眞壁郡加波山上に擧げ以て自由立憲政体を造出せんと欲す。嗚呼三千七百萬の同胞よ我黨と志を同ふし倶に大義に応ずるは豈に正に志士仁人の本分にあらずや。茲に檄を飛ばして天下兄弟に告ぐと云爾。
明治十七年九月二十三日
茨城縣 富松正安 保多駒吉 玉水嘉一
福島縣 杉浦吉副 五十川元吉 天野市太郎 草野佐久馬 河野廣體 小針重雄 三浦文治 山口守太郎 琴田岩松 原利八 横山信六
栃木縣 平尾八十吉
愛知縣 小林篤太郎
加波山での挙兵を主導したのは平尾で、一同の首領には富松が推された。横山はすぐにも山を下りて栃木県庁の落成式に改めて備えるべきと主張していた。
また、強盗事件で捕まった門奈は次のような構想を抱いていたという。伊東仁太郎『快傑伝』(平凡社、昭10)「加波山事件の追懐」より
警視庁、鎮台、近衛兵営に打入り、之を占領し、正々堂々の戦ひは、仙台と名古屋鎮台なるも、東京挙兵と同時に、手分けして、檄を各地の同志に飛ばして、集結を図り、一方、それ等を待たず地理に委しき奥州路に、逆寄せして仙台鎮台と雌雄を決し、其勝敗に依って、革命の成否を、決すべきものなり。
挙兵主義か暗殺主義か、暗殺をきっかけとする挙兵か、圧制政府転覆では一致していたものの、確固たる軍略を同志で共有していたわけではなかった。
しかし、事ここに至っては、やれるだけのことをやるしかない。その日の晩には山を下りて下妻警察署町屋分署を爆裂弾で襲撃、山中にも投擲して轟音を響かせた。山上では篝火が高々と焚かれていた。檄文は麓の民家に貼られ、山に登ってくる者にも配られた。驚いた茨城県令の人見寧は「暴徒三千加波山に蜂起」と内務省に打電したという。
勢いがあったのは、ここまでだった。翌24日、「大義に応ずる」同志の来援はなかった。食糧の確保が困難なことも明らかだった。そこで、夜になって山を降り宇都宮に進撃しようということになった。
午後9時から山を降り始めた。麓で警戒する警官に遭遇するのは想定していた。午後10時ごろ、警官隊と衝突、爆弾を投げ煙幕と闇の中での斬り合いとなった。
ゆかりの場所に「嗚呼長岡戦畷之跡」との碑が建てられている。揮毫は本間憲一郎である。裏には檄文が刻まれている。その隅に橘孝三郎の名がある。本間と橘は茨城県の国家主義者であるが、窮乏する農民を救う神の政府を樹立しようとする気持ちは、加波山事件の志士たちと相通じるものがあったのかもしれない。
この戦いで平尾八十吉が戦死する。警官隊では村田常儀巡査が殉職した。平尾の倒れた場所は碑から約50m南だったという。平尾の墓は真徳寺(桜川市真壁町古城)と妙西寺(筑西市乙)にある。村田の墓は神応寺(水戸市元山町一丁目)にある。
残った15名は逃げることに成功したが、26日に現在の真岡市小林で他日を期して解散する。そして、逃避行の長短はあったが全員が捕縛されるのである。
彼等は河野広中のように国事犯として裁判を受けるものと考えていたが、強盗・故殺の常事犯として裁かれることとなった。これは河野のように英雄視されるのを防ぐためであったようだ。量刑は常事犯のわりには重く、7名に死刑判決が下った。
なお、今も法令としての効力がある太政官布告「爆発物取締罰則」が制定されたのは、明治17年12月27日である。加波山での爆弾闘争が政府を動かしたのであった。
河野広中の甥である河野広躰は、この事件において主役級の働きをしたのだが、未成年であったがために死一等を減ぜられた。その後、長生きをして昭和12年に事件を回想した談話が新聞紙上に掲載された。その中に次のような一節がある。田村幸一郎『加波山事件始末記』(伝統と現代社)「加波山事件秘録」より
その謀や暴、総べて若気の至りの想ひ出でございます。
幕末の志士、激化事件の運動家、そして青年将校。戦後の学生運動を含めてもよい。社会の矛盾を悲憤慷慨し、行動を起こすのは若者であった。勢いで行動に走るなど、若気の至りは確かにあろう。しかし、動かねば何も始まらない。
トマ・ピケティ『21世紀の資本』が人気だ。これを読んだ若者は、ピケティが警鐘を鳴らす格差社会の拡大に、どのように立ち向かうのか。選挙を通した意思表明をするのか。悲憤慷慨して直接行動に訴える者が現れるのか。それ以前に、若者は本を読んでいるのだろうか。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。