ソニー損保が今年の新成人を対象に実施したカーライフ意識調査によると、「欲しい車」第1位はトヨタのプリウスだった。最近の若者はエコなのか金持ちなのか。私も欲しいです。
さて、「プリウス」の車名の由来は、「~に先駆けて」を意味するラテン語である。ラテン語は日常会話で使われなくなった死語だが、教皇庁のあるバチカン市国では公用語だそうだ。
そんなラテン語が今から四百年以上も前の日本で教えられていた。なぜか。場所を聞けば納得だ。織田信長の城下町、安土である。
近江八幡市安土町に「セミナリヨ趾」の石碑がある。このあたりの小字を「大臼(だいうす)」というが、これは神を意味するラテン語デウスに由来しているらしい。
石碑の文字は1975年3月、カトリック大司教白柳(しらやなぎ)誠一氏の書である。白柳氏は後に枢機卿となり、ベネディクト16世を選出したコンクラーベにも出席した日本を代表するキリスト者である。
セミナリヨとはイエズス会が設けた神学校である。日本人の力量を高く評価したバリニャーノ神父の指示により、オルガンチノ神父が信長と交渉して、天正八年(1580)に安土に創設した。建物は和風の三階建で、安土城と同じ青色の瓦で屋根が葺かれた。
セミナリヨの日課は4:30起床、20:00就寝で、その間、ラテン語、日本語、音楽の学習をした。祈りや掃除、もちろん自由時間もあった。生徒は25~30人である。
これはパウロ三木の顕彰碑である。どのような人物だろうか。碑文を読んでみよう。
安土セミナリヨと三木パウロ
一五八〇年五月オルガンチノ神父が信長から土地を下付されて開校したセミナリヨ(神学校)は、日本近代教育の幕あけにふさわしい充実した教育内容と、三階建の豪華壮麗な大建築とで、遠く海外にも知られていた。このセミナリヨも、やがて本能寺の変に続く動乱のために焼失し、安土にあったのは僅か二カ年余に過ぎなかったが、その間日本の精神的指導者となるべき幾多の優秀な人材が育成された。阿波の士族三木半太夫の子、三木パウロもその一人である。彼は一五六四年頃生まれ、幼少時に授洗、セミナリヨを卒業後一五八六年イエズス会に入り、布教活動に献身した。しかし一五九六年十二月秀吉のキリシタン弾圧にともなって大坂で逮捕され、翌年一月他の二十五名の信者とともに陸路九州へ護送されて、二月五日長崎西坂の丘で殉教した。一八六二年法王ピオ九世は彼ら二十六人の遺徳を讃えて全員を聖人の位にあげ、ここに三木パウロの名は日本二十六聖人の一人として、広く世界の人々の尊敬を集めることとなった。今日三木パウロの遺骨をこの地に迎えるにあたってその記念としてこれを建立するものである。
一九八一年五月三十一日
ここで学んだ信者のうち、著名な一人を挙げるとすれば彼だろう。ローマ教皇ピウス9世が聖人としてくださったことには心より感謝するのだが、それ以上に1627年にウルバヌス8世が列福してくださったことは、日本人としての誇りだ。この時代にあっても情報は正確に伝わっていたのだ。
善き信者を輩出したセミナリヨは、本能寺の変の後、京都、高槻、大坂(天満橋近辺)、焼山(やきやま、平戸市生月町里免)、長崎、有馬、八良尾(はちらお、南島原市北有馬町丙)、加津佐、八良尾、有家、長崎、天草、長崎、有馬、長崎へと逃避行のように移転した。そして慶長十九年(1614)、禁教令による国外追放で終焉を迎えるのである。
「日本近代教育の幕あけ」というが、明治以来西洋教育を導入してきた現代から見れば先駆けのように見えるだけで、セミナリヨの潮流は禁教と鎖国の荒波に翻弄され途絶えてしまうのだ。
いま、イスラム国による残忍な殺害が報道されている。まったく神も許さぬ蛮行のように思えるが、同じような殺害は、我が国でもかつてキリシタンに対して、宣教師に対して行われた。
そのようにしてキリスト教を排除し鎖国の道を歩むことによって、植民地化の危機を免れたのかもしれない。しかし、それは殉教者という尊い犠牲のうえに成り立った平和であった。
安土セミナリヨで学んだ人々は、その後どのような人生を歩んだのだろうか。パウロ三木のように殉教したのか。棄教する人はいなかったのか。安土の地で信長の庇護のもと、いきいきと学んでいたあの頃が、天国にいちばん近い学校だったのかもしれない。