ディズニーが実写映画化した『シンデレラ』が、この前の土日で4週連続第1位、興行収入は累計で40億円を超えた。関連グッズの売り上げも好調のようだ。アニメ映画のシンデレラが誕生したのは1950年、既に65年が経つが、色褪せないところが名作たるゆえんだ。
シンデレラの物語は、さらに遡るとペロー童話、グリム童話に淵源があることが分かる。古典なのである。その主題はサクセスストーリーであり、はっきり言えば下剋上だし、米国ではアメリカン・ドリームと呼ばれている。古今東西、庶民の心をくすぐる物語なのである。
四国中央市土居町津根の一宮神社境内に「永隆院殿生誕之地」の石碑がある。
永隆院とはどなたなのか。石碑には次のように刻まれている。
徳川御三家紀伊和歌山五十五万余石七代当主
従三位権中納言参議徳川宗将卿御母
永隆院殿生誕之地
元禄十五壬午歳服部幸左衛門息女として津根村八日市にて誕生俗称サク御一生産土神一宮を御信仰年々御代参を立てさせらる御代参は土居村郷士大庄屋加地氏之を勤める
サク、地元では「お作さん」として親しまれている。紀州徳川家に嫁いだ女性で、出身地の神様に篤い信仰を寄せていた。話がこれだけなら「ふーん」だ。物語はこれからなのだ。ストーリーテリングを始めよう。
四国中央市土居町津根の八日市に「お作池」がある。
赤星山からの伏流水はこのあたりで湧出する。かつては道を挟んで北側に池があったのだと地元の方が語っていた。この池がお作さんの運命を変えた。説明板を読んでみよう。
お作姫の由
元禄十五年「一七〇二年」津根村八日市にて誕生、正徳四年「一七一四年」西条藩主松平頼致(まつだいらよりよし)公が領内見廻り中、水屋池に居合わせたお作「十三才」に一杯の水を要求した。泉よりわき出(いで)し冷水を柄杓(ひしゃく)にてくみ捧(ささ)げる。そのときの「しぐさ、行儀、その上器量よし」藩主に大変お気に入られ西条藩に召される。
西条藩主頼致(よりよし)公が宗直(むねなお)と改名され紀州六代徳川宗直城主となり家嗣される。享保五年「一七二〇年」二月晦日(みそか)宗将が誕生する「お作十九才」徳川御三家紀州和歌山七代城主徳川宗将(とくがわむねのぶ)の母「お作さん」
語り継がれた今日ふる里に数多くの村おこしの源を送り残され、永隆院(えいりゅういん)とし、母の愛と光を世に広めました。
お作さんの父は服部幸左衛門一則(かずのり)といい、豊後杵築藩の松平英親(ひでちか)に仕えていた。英親の妹が西條藩主一柳(ひとつやなぎ)直興に輿入れするのに伴い伊予に移ってきた。一柳家が西条を離れてからも八日市に住んだ。いわば普通の武士で、徳川家に嫁を出すほどの家格ではない。
そんな服部家にお作さんが生まれたのが、元禄十五年(1702)である。ところが、4歳のときに母が、7歳のときに父が亡くなってしまう。
正徳四年(1714)、12歳のお作さんに白馬の王子さまがやってきた。その名は松平頼致、伊予西條藩主である。水を所望するお殿様に柄杓で汲んで差し上げたが、その上品さにお殿様の心は奪われてしまう。運命の出会いの瞬間である。
何が起こるか分からぬのが人生であるが、暴れん坊将軍で知られる徳川吉宗の8代将軍就任もまた、偶然に次ぐ偶然の結果であった。吉宗は紀州藩主家の四男として生まれ、越前葛野(かずら)に領地を与えられた。何事もなければ紀州藩の支藩の藩主として一生を終えたことだろう。
ところが、紀州藩主であった長兄が子のないまま死去、次兄はすでに早世、藩主を継いだ三兄は妻子のないまま急逝、このため吉宗が藩主を継いだ。さらには徳川本家7代将軍家継の夭折と続き、吉宗は請われて御三家紀州から将軍家を継ぐこととなる。享保元年(1716)のことであった。
不在となった紀州藩主を継いだのが、かの王子さま、松平頼致である。頼致は紀州藩初代頼宣(よりのぶ)の孫で、吉宗とは従兄弟にあたるから、紀州藩を継ぐ資格は充分であった。しかし何事もなければ西條藩主で終わっていたはずだ。偶然の玉突きによる大出世である。藩主となってからは徳川宗直と名乗った。
今やお作さんは御三家紀州の藩主の奥方であり、源珠子(みなもとのたまこ)という名前となり、永隆院と呼ばれた。「源」は徳川氏の本姓である。そして、享保五年(1720)には長男宗将(むねのぶ)が誕生する。
宗将は宝暦七年(1757)、父の死により紀州藩主の地位を継ぎ、永隆院は藩主の御生母として敬われた。富も権勢も誇ることのできる立場となって江戸で暮し、若き日に八日市を出てから天明元年(1781)に亡くなるまで故郷に戻ることはなかった。
それでも、永隆院は遠きに在りて、いつも故郷に心を寄せていたのである。ゆかりの史跡を訪ねてみよう。
四国中央市土居町津根にお作さんの父「服部一則の墓」がある。写真では見えにくいが母の墓も並んでいる。両親の供養のため、永隆院となったお作さんが整備した。
また、産土神である一宮神社に常夜灯を寄進している。
葵の御紋が徳川家とのゆかりを示している。
塔身に「永隆院」と「源宗将」の文字を見ることができる。永隆院の子、紀州7代藩主徳川宗将は、明和二年(1765)に母に先立って亡くなってしまった。
天保十三年(1842)に西條藩主の命により日野和煦(にこてる)が編纂した地誌『西條誌』巻之十八「附録」に、永隆院の人物評が記されている。評者は和煦自身である。
永隆院殿、御容色すぐれて美シく被為入たるにてハ無りし、然ども、いまだ貴からざりし時より、御行義正しく、御慎ミ深かりし事、村老の口碑にのこれり、しかなくして、僥倖(さいわい)にて、玉の臺(うてな)にのぼり、錦の茵(しとね)にかしづかれ玉ふの理有らんや
永隆院さまは、それほどお美しい方ではありませんでしたが、小さいときから、行儀正しく慎み深かったことは、地元に語り伝えられています。そうでなければ、シンデレラが王子さまに見初められたようなことになるわけがありません。
『西條誌』にシンデレラは登場しないが、そのような意味のことが記されている。行儀正しく慎み深い、昔も今も人として大切なことは変わらないようだ。
新居浜や西条など、愛媛県の東予地方東部の秋祭りは、聞くところによると、それはそれは凄い迫力なのだそうだ。永隆院の故郷でも、毎年10月13~15日に土居秋まつりが行われている。豪華絢爛な太鼓台を地域が一丸となって担ぎ上げる勇壮華麗な祭りである。
この祭りで男を上げた者は女の子にモテるのだそうだ。また、子供らは太鼓をかきたいから大人の言うことは聞くのだそうだ。祭りは青少年の健全育成にも役立っている。
地元の方に祭りのポスターをいただいた。3トンもあるという八日市の太鼓台が大きく写り、そこに「お作さん」の雄姿を見ることができる。おしとやかなお作さんも驚いているだろうが、故郷を愛し続けた永隆院は地元の人々の誇りなのである。
司馬遼太郎が描いて坂本龍馬が英雄となったのだから、お作さんも誰か作家が採り上げてくれたらよいのに、とは地元の方の言葉だ。確かにお作さんの知名度はまだまだ低い。ウィキペディアにも項目がない。江戸時代に実在した伊予のシンデレラは、今また歴史小説デビューを待っている。
与六さま
ご覧くださいまして、ありがとうございます。私も調べれば調べるほど、素晴らしい方だなと感心いたしました。地域の誇りですね。
投稿情報: 玉山 | 2017/10/16 20:32
殿様の奥方に、なった方がいる話しは、聞いてましたが、お作さん、そして、永隆院は、今日、知りました。殿様の奥方さまでも凄いのに、御三家の奥方さまなられたのですから、未曾有な出世ですね。
投稿情報: 与六 | 2017/10/16 00:34