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よく週刊誌で、「あの人は今」だとか「有名人のその後」とかの特集がある。当人にしてみれば「ほっとってくれ」だろうが、こっちにとっては他人事、「あの頃は飛ぶ鳥を落とす勢いだったなあ」「芸能界はきびしいのう」と思いながら読んでいる。
歴史でも同じことが言える。中世播磨の名族、赤松氏である。室町幕府の創設に大きな役割を果たし、有力な守護大名として四職の一つに数えられた。
初代円心(えんしん)は、足利尊氏に「およそ合戦には旗をもって本とす。官軍は錦の御旗を先だつ」と光厳上皇の院宣を奉じるよう勧めた。室町幕府の正統性を築いた張本人である。
二代則祐(そくゆう)は、播磨のほか、摂津、備前の守護を兼ねて赤松氏の勢力の基礎を固めた。
三代義則(よしのり)は、明徳の乱で山名氏追討に功があり、播磨、備前に加えて美作の守護となった。室町幕府も赤松氏も最も安定していた時期である。
四代満祐(みつすけ)は、将軍義教を暗殺し播磨に立てこもった。新将軍を擁立して正統性を主張したが幕府軍に滅ぼされた。
五代政則(まさのり)は、赤松氏中興の祖である。家臣の浦上氏の働きにより赤松氏は再興し、応仁の乱に乗じて播磨、備前、美作を奪回した。置塩(おきしお)城を築く。
六代義村(よしむら)から赤松氏は衰退していく。浦上氏の離反により権威は失墜し、守護職は名目上のものとなる。名水播磨十水を選定したのは義村だという。
七代晴政(はるまさ)も浦上氏と対立する。備前、美作の守護職を尼子氏に奪われる。播磨守護職も晴政までのようだ。
八代義祐(よしすけ)は一族の政秀と対立し、勢力範囲が一段と狭くなる。織田信長が勢力を伸張してきたため、これと接近を図る。
そして、九代則房(のりふさ)が本日の主人公である。義祐の子で、羽柴秀吉の中国攻め以降は秀吉に臣従した。
徳島県板野郡藍住町住吉字神蔵(じんぞう)の八坂神社のあたりは「住吉城址」である。藍住町指定史跡となっている。
石垣やお堀があるわけではないので、イメージが湧かない。とりあえず説明板を読んでみよう。
中世城址で城主山田家、天正十三年(一五八五)に赤松則房の住吉藩(一万石)が立藩され、その居城、中心部は東西八三.四メートル、南北一〇〇メートルの水田中にあり、城主を祀る城神さんの小塚が現在、その北に赤松屋敷があったという。
山田氏が城主の時代には三好氏に仕えていた。現在城址のすぐ近くに金山寺みそをつくる山田味噌醸造という会社がある。
羽柴秀吉は天正8年(1580)に播磨を平定し、翌9年、播磨国内の置塩城他の破却を命じた。同13年に赤松則房は阿波住吉に移封されることとなった。則房は秀吉の配下として数々の戦いに参陣し、武功を上げたようだ。
説明文中にある「城主を祀る城神さんの小塚」というのがこれだ。
則房は慶長三年(1598)7月17日に亡くなった。藍住町住吉字逆藤(さかふじ)の福成寺(ふくじょうじ)の境内には、則房の供養塔と伝えられるものがある。
則房の跡を継いだのは、その子の則英(のりひで)である。ところが、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、近江佐和山城に籠城し、落城後の慶長5年(1600)10月1日に京都で自害したと伝えられている。住吉藩は蜂須賀家の領域に編入された。
播磨に興り、備前や美作にも勢力を広げた名族・赤松氏は、こうして阿波で終焉を迎えたのである。ただ、赤松の血脈が絶えたわけではない。
二代則祐の流れである摂津有馬氏は秀吉に仕えたのちに、関ヶ原の戦いでは東軍につき、江戸期は久留米藩主として続いた。明治期に伯爵を授けられ、競馬の有馬記念にも名を残している。
また、初代円心の嫡男範資(のりすけ)は父の死後間もなく死去するが、その子光範の系統が江戸期に旗本として存続している。陣屋は上総下湯江村(現在は君津市下湯江)にあった。幕末の赤松範忠は外国奉行を務めた。その子範静は勝海舟らと並び幕府最後の軍艦奉行であった。
さらに、別系統の赤松則良(のりよし)は、咸臨丸の一員として渡米し海軍の道を歩んだ。造船技術に優れ、海軍中将に進み男爵を授けられた。磐田市見附にある旧赤松家記念館は彼の邸宅跡である。
赤松氏嫡流が播磨を追われ阿波で滅んだ。名族の終焉を悲話として語ろうとしたのだが、赤松一族はその後も各地で活躍していたのであった。人間いたるところ青山あり。播磨の名族は今も日本有数の名族であった。