明治天皇は立派な方だったと思う。なぜなら、天皇として期待される振る舞いを見事に演じきったからだ。古今東西の君主には、暴君だとか暗君だとか、本当に扱いに困ったお人もいた。もちろん人間だもの、だるいとか腹立つとか、いろんな感情が湧き起こったに違いない。しかし、それを面に表さぬのが帝王である。
たつの市揖保川町正條(いぼがわちょうしょうじょう)に「明治天皇御駐輦趾」の碑がある。駐輦(ちゅうれん)とは天皇の乗り物をとめることをいう。
旧山陽道に面して石碑があるが、その背後は正條宿の本陣を務めていた井口家である。明治天皇が井口家で昼食をとったのは、明治18年(1885)8月8日のことである。
天皇の御巡幸についてはもっと研究されてよい。明治天皇は巡幸で国家形成に求心力を発揮し、昭和天皇のそれは戦後日本を復興に導いた。天皇の存在が国民にアイデンティティをもたらす顕著な例である。
明治天皇の旅は「六大巡幸」として知られ、明治18年の山陽道巡幸はその6番目である。新国家建設に当たり、政府が天皇の存在の周知を図ったのである。
天皇は7月26日に海路山口に向かい、広島、岡山を経て、8月8日に船坂峠を越えて兵庫県に入った。この時の様子を、兵庫県が昭和11年に作成した『明治天皇聖蹟』で読んでみよう。
御駐輦当日の御模様を顧るに、八日早朝岡山県和気郡三石の行在所を御発輦ありし車駕は船坂峠の嶮を越えて本県管内に入らせられ、梨ヶ原・東有年・入野の御小休所を経て、午前十一時五十五分当行在所に御著あらせられたり。入野御小休所よりの距離一里二十三町、全御行程将に七里に近く御疲労の程も拝察されて畏し。御座所には予て毛氈を敷き詰め、襖を外し金屏風を立て通風を図り臨御を待ち奉れり。宸憩四十五分、此の間昼餐を召され又種々天覧あり。
午後1時40分にはこの地を発って西へと向かった。この後に訪れる「山田御小休所」については以前にレポートしている。
毛氈を敷き詰め金屏風を立て、最高級のもてなしをしている。何をお召し上がりになったのか、気になるが分からない。ただし、天覧に供された品々は記録がある。
平重衡の琵琶、狩野元信の絵馬、文禄の役で脇坂安治の船が受けた弾丸、文禄の役での戦利品(矢5本、茶壺1個)、後醍醐天皇の綸旨、愛染明王像、楠木正成が拝領した刀、正成の軍令状など骨董品が多い。物産品は、室津の皮革製品、龍野の畳紙と醤油であった。
また、今のたつの市御津町苅屋の漁民が生鯛2尾を献上した。これは神功皇后、後醍醐天皇、光明天皇の佳例に倣ったものだという。
このように、明治天皇の旅は休むといっても休んでいる間はないのだ。疲労が見えたと記録に残るが、ちょっと横にならせてくれ、とも言えず、聖人君子の振る舞いを続けねばならなかった。
天皇がこの場所にとどまったのは2時間足らずであった。それだけのことだが、昭和3年に上記の石碑が建立され、長く記憶されることとなった。同9年には、史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定された。写真左端の「明治天皇正條行在所」の石碑がそのことを示している。
つまり、国家主義的な風潮が高まる昭和初期に、再び明治天皇の求心力が利用されたのだ。しかし、その後の歴史はご存じのとおり、明治天皇の威徳とは関係なく敗戦を迎える。そしてこの場所も、昭和23年に史蹟指定を解除される。
戦前のことを何でも悪く言う風潮に対して、「教育勅語」だっていいことを書いているじゃないか、と明治天皇の「教育勅語」復活を唱えるウルトラ保守派がいる。そんな人々も明治天皇の聖蹟復活は主張していない。
私はあえて逆説的に表現するが、「聖蹟」は保存すべきだと思う。今日紹介した「聖蹟」の石碑には、昭和初期の年月が刻まれている。明治天皇がお昼ごはんを食べた場所までもが、この時期に「聖蹟」となった、その意味を考える貴重な文化財である。
後世を生きる人々は、歴史上の人物をさまざまに利用する。自分の主張を歴史人物に代弁させ、その正当性を主張しているのである。
これからの時代、歴史の中からクローズアップされるのは誰か。その人物の業績を知るのもよいが、注目される社会背景を考えることには大きな意味がある。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。