アニメ「勇者ライディーン」とYMO「RYDEEN」と力士「雷電」とは相互に関係があるらしい。アニメはあまり見ていないが、YMOはよく聴いた。チャーチャーチャー、チャチャチャチャッチャララッチャ、チャーというやつである。内容は互いに無関係だが、「雷電」のイメージや語感が、現代のエンタメに活かされたのだ。雷電は死なず、である。
どうでもいいとお思いかもしれない。気を取り直して、雷電為右衛門(らいでんためえもん)の話を始めよう。
松江市外中原町の月照寺に「雷電為右衛門之碑」がある。一見トトロかと思えるくらいに苔むしている。左下に手形が彫られている。手を当ててみると、デカい。
雷電為右衛門は、古今無双の力士として知られ、9割6分2厘の驚異的な勝率を誇る。生まれは信濃で、東御市滋野乙の「力士雷電生家」は市指定史跡である。墓は港区赤坂7丁目の報土寺と佐倉市臼井台の妙覚寺、松江市和多見町の西光寺、そして生家の近くにもある。
亡くなったのは江戸、妻の実家が臼井にあった。では、雲州松江にはどのようなゆかりがあるのか。長編小説『雷電』を書いた尾崎士郎の撰文が、碑の裏に刻まれている。一部を抜粋しよう。
雷電をしてその存在を高からしめたものは松平不昧公であり、この景勝豊かなる土地に雷電碑の立つことは天下の喜びであろう。
昭和三十一年四月下浣 尾崎士郎しるす
下浣とは下旬のことである。雷電は、松江藩7代藩主松平不昧(ふまい)公のお召しにより、天明8年(1788)に藩のお抱え力士となった。寛政7年(1795)から引退する文化8年(1811)までは、大関として活躍した。
雷電ほどの強豪がなぜ横綱でないのか。相撲史上の謎だそうだ。雷電と同時代の横綱は小野川喜三郎だが、両者の対戦では雷電の方が強かった。小野川の引退後も雷電は勝ち続けるが、横綱に推挙されることはなかった。
横綱にならなかった理由は様々に言われているようだが、尾崎士郎は講談社の絵本『雷電為右衛門』(昭26)で次のように述べている。
ところで、天下無敵の雷電為右衛門は、その一生、横綱を張ることなくして終っております。日の下開山、天下の横綱はたった一人あればよいと、当時の世間も信じ、雷電自身も信じていたのではないかと、私は秘かに考えています。そして、その淡々たる態度、謙虚なる心が、彼自身の強さを永遠なものにさせているのです。
尾崎は理由を、雷電の高潔な人間性に求めている。確かに彼は単なる豪傑ではなく、『雷電日記』を残すなど、教養ある文化人だったようだ。
雷電の時代には、横綱が制度的に確立された地位ではなかった。谷風と小野川に横綱免許が授与されたのは、二人の功績を称える特例だったようだ。強ければ昇進する最高位としての「横綱」ではない。
雷電は名大関で何ら問題ない。しかも、天下無敵の大関であった。今ちょうど大相撲の名古屋場所が行われている。雷電と同じ長野県出身の幕内はいないが、ゆかりの島根県出身なら隠岐の海がいる。
番付表を見ると、ワールドカップができそうなくらい外国出身者が多くなっている。それはそれでよいのだが、我が国出身の力士の活躍には、やはり血が騒ぐ。明日の隠岐の海は、同じ前頭五枚目で奈良県出身の徳勝龍との対戦だ。こうなったら、ライディーンへフェード・イン!
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