「生活の党と山本太郎となかまたち」という訳が分からぬ、いや、考えようによっては実に分かりやすい名前の政党がある。今回の安保騒動で、山本太郎氏は喪服で数珠を手に一人牛歩で採決に臨み、抵抗する姿勢を身を以て表現した。
焼香のしぐさもしたようだが、彼の俳優魂がそうさせたのだろう。私が彼を初めて知ったのは、NHK大河「新選組!」の原田左之助役である。普段は場の雰囲気を盛り上げる三枚目だが、いざという時の槍術はめっぽう強い、そんな役柄だった。
あの堺雅人を知ったのも「新選組!」の山南敬助役である。理性で新撰組を支える役柄で、落ち着いた物言いと目を細める静かな笑みでブレイクした。
山南は元治二年(1865)2月23日に粛清される。脱走の罪により切腹して果てたのだが、その背景はよく分かっていない。原因の一つとして考えられるのが、屯所(とんしょ=本拠地)の移転問題である。山南は、屯所を壬生(みぶ)の八木邸から西本願寺へ移転する方針に反対していた。
寺に迷惑がかかるのを許容できなかったようだが、それだけではあるまい。土方や近藤との確執、伊東甲子太郎の加入によって生じた組織の変容に耐えられなくなった、なども考えられる。
山南の死については、これ以上言及しない。今日は、彼の死後に移された屯所、西本願寺ゆかりの地をレポートする。
姫路市亀山の亀山本徳寺の本堂は、西本願寺にあった北集会所の建物を、明治6年3月に移築したものである。御本尊に合掌して拝観させていただくこととしよう。
「西本願寺旧北集会所」である本堂の北側の柱に「新撰組入刀痕痕跡柱」がある。
なぜ、このような刀の傷があるのだろうか。刀を抜身のまま出入りしたのか。ここで喧嘩になって斬り合ったのか。暇つぶしか腹いせで柱を削ったのか。いずれにしろ器物損壊罪に該当する。新撰組はお詫びやら弁償をしたのだろうか。
当時、新撰組は訓練と称して空砲を放ったり、イノシシ肉を鍋で煮て食ったりと、信仰の場をお借りしているという意識などなかった。当然ながら西本願寺は広如上人をはじめ、たいへん迷惑がっていたという。もっとも広如上人は長州びいきだったから、新撰組の行為は上人に対する嫌がらせだったのかもしれない。
西本願寺に屯所があったのは、元治元年(1865)3月10日から慶応三年(1867)6月15日までだった。新撰組に早く出て行ってもらおうと、西本願寺が次の屯所を不動堂村に用意したという。屯所として使用された北集会所は、新撰組退去後に解体され、建築資材として保管された。
そんなわけで現在、西本願寺(京都市下京区堀川通花屋町下ル)に残る新撰組ゆかりの建物は「太鼓楼」のみである。この日の京都は天気がよく、写真が明るい。
上記の内容と重複するが、本願寺作成の説明板を読んでみよう。
新選組は、「池田屋騒動」(元治元<一八六四>年)以降隊士が増え、壬生の屯所では狭くなったこともあり、慶応元年(一八六五)年三月十日、屯所を壬生から本願寺に移し、境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、北東にあった北集会所と太鼓楼を使用しておりました。
本願寺は、長州との深い縁もあり、幕末の尊皇攘夷運動のなかで幕府と対立していた長州藩士たちが、何かにつけて本願寺を頼りにしていたため、新選組は本願寺のなかに本拠を移すことによって一石二鳥の効果をねらったものでありました。
新選組は、境内で大砲を轟かせたり、実弾射撃をおこなったり、乱暴を繰り返したため参拝の門信徒や僧侶らを震撼させる毎日であったそうです。新選組の活動期間は六年ぐらいであり、大部分が暗殺されていった中、結成時からの元隊士、島田魁(しまだかい)が明治維新後、本願寺の守衛を勤め、終生お念仏を喜びながら太鼓番をしたという話が伝わっております。明治六(一八七三)年、北集会所は姫路市の(亀山)本徳寺に一部移設されたため、現在の本願寺に新選組の足跡を見るのは太鼓楼だけであります。
本願寺の守衛を務めた元新撰組隊士、島田魁が亡くなったのは明治33年である。武士の世はすっかり過去となっていた。ずいぶんと変わったと感慨深く昔を回想することもあっただろう。
さて、北集会所の建物は、なぜ姫路の亀山本徳寺に移築されたのだろうか。まず、本徳寺は門主さまの御連枝が住持となる一家衆寺院であり、広如上人の娘の嫁ぎ先でもあった。そして本徳寺の本堂は、安政の大地震で大破、明治元年に焼失で、本堂の再建が懸案となっていた。そこで、西本願寺が保管していた建材が本堂再建に活用されたというわけだ。
西本願寺と本徳寺の深い縁により、新撰組ゆかりの建物は刀傷を含めて今に伝わった。「新選組!」では、この本徳寺本堂が「西本願寺屯所」との設定でロケに使われ、山本耕史や藤原竜也らが撮影に臨んだという。放映場面は覚えていないが、リアリティのある絵が撮れたことだろう。
一昨年は新撰組結成150周年が各地で盛り上がったが、今年は西本願寺への屯所移転150周年である。西本願寺に屯所があった頃、隊士は200人を数え、新選組は組織として最も充実していた。姫路と京都、新撰組の聖地巡礼コースとしてお勧めしたい。
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