戦争反対の声が登場したのは日露戦争の頃だ。内村鑑三の非戦論や与謝野晶子の反戦詩は、歴史教科書に掲載されている。晶子は、「死ぬるを人のほまれ」とは天皇陛下も思っていらっしゃらないでしょう、と戦争を賛美する風潮に一石を投じた。
安全保障関連法の成立から1か月の今日は、日露戦争の記念碑を紹介する。出征した人々の名前を記した碑は各地にある。もちろんこの碑にも39名の名が刻まれていた。しかし、それだけではない。戦争を防ぐにはどうしたらよいのか。未来へのメッセージが記されていたのである。
四国中央市土居町藤原の八坂神社に「日露戦役紀念碑」がある。明治40年(1907)の建立である。
何が書いてあるのか、碑面を拡大してみよう。
何もない。よく見ると、右上に「日」という文字が消えかかっている。何か事情がありそうだ。『土居町誌』で調べてみよう。
この碑は名文で人の心を打つ。字も美しい。地方の人たちがそれを誇りとしていたが、たまたま明治四三年秋、当時の小富士村長高橋八作が、得々としてその拓本を遊びに来た三島警察署長に示した事から、当局の驚駭する所となり、「忠君愛国の四字を滅するにありと予は思う」の所を刻潰させたが、かえって注目を引いたので全文を読めぬようにしてしまった。
文章を書いた安藤正楽(あんどうせいがく)は、地元出身の歴史学者である。明治43年(1910)秋といえば、大逆事件の検挙が進んでいる頃で、警察は反政府的な言動に敏感になっていた。東京にいた正楽は、しばらく勾留されてしまう。
正楽に特段の処分は下されなかったが、それにしても、「忠君愛国の四字を滅する」とは、思い切ったことを書いたものだ。幸いなことに拓本が残されており、今では原文を読むことができる。
日露戦争から凱旋した藤原の軍人諸氏が予に其紀念碑の文を請はれた 其人達は越智大吉越智和田市越智大三郎大田亀太郎大田六助大田梅三郎大田春市大原福太郎加地幾平加地弥五郎加地市太郎加地定吉加地浅太郎加地与吉高石菊太高石小三郎高石小市郎高橋庄作村上鬼子松村上佳吉村上嘉市村上梅吉松岡源太藤田兼太郎近藤勇吉近藤保太郎近藤泰助安部武平安部梅太郎安部福助青木安吉岸鶴市三木鹿太郎三木久吉三木鶴吉三木頼助三木万吉の三十七氏で 内八人は負傷し外近藤嶺吉高石音吉の二氏は討死されたのである 鳴呼此部落僅百七十戸それに□多数の人が出て在つたか!今更当時を回想し戦慄せざるを得ぬ 由来戦争の非は世界の公論であるのに事実は之に反して戦は明日にも亦始るのである 吁之を如何すればよいか他なし世界人類のために忠君愛国の四字を滅すにありと予は思ふ諸氏は抑此役に於て如何の感を得て帰つたのであろう?
明治四十年三月 安藤正楽題撰書
小さな村から多くの人が出征していることに驚き、「戦争の非は世界の公論」であることを指摘している。1899年(明治32)にオランダのハーグで開かれた万国平和会議では、国際紛争を平和的に解決することが確認されていた。正楽の言うとおり、戦争の非道性はすでに世界の常識となっていた。
しかし、現実はどうか。戦争は行われた。また、始められるだろう。どうすれば戦争放棄ができるのか。「忠君愛国の四字を滅す」これしかない。正楽はそう訴えた。
忠君愛国の心情は、熱くなれば国粋主義へと変貌する。自国を愛する裏返しに他国を卑下し、排外性を帯びて安易に敵をつくる。そんなことになるくらいなら、忠君愛国は必要ない。国粋主義ではなく「世界人類にために」という国際主義に立て。そう言っている。
今年は戦後70年ということで、新聞紙上で数多くの戦争体験を読むことができた。誰もが戦争の非道性を心から訴えている。太平洋戦争は敗れたから悲惨だったのではない。勝った戦争でも非道なのである。よい戦争はないのである。削られた正楽の言葉は今も輝きを失っていない。
つなさま
ご覧いただき、ありがとうございます。歴史を語る貴重な石碑ですね。地元の方が大切になさっていることに敬意を表したいと思います。
投稿情報: 玉山 | 2017/11/11 16:47
地域の公民館まつりで顕彰展示します。時代が要求しているようで。
投稿情報: つな | 2017/11/11 03:56