今年は高野山開創1200年、つまり空海が高野山に金剛峰寺を開いてから1200年となる。
空海がすごいのは、「即身成仏」という考えを広めたことである。その頃、悟りを開いて仏となるには、何代も生まれ変わるという、気の遠くなるような時間がかかるとされていた。それを、「今あなたの身体のままで仏になれるのですよ。なぜなら、この宇宙は真理に満ちあふれており、あなたの中にも悟りを開く力が備わっているからです」と説いたのである。
その真理を大日如来(だいにちにょらい)という。大日如来は真理そのものなのだから姿形がない。これでは何が真理なのか民衆には分かりにくい。そこで、大日如来は姿を現して教えを説いているのではないか、という新しい解釈が打ち出された。
この解釈は、旧来の本地身(ほんじしん)説法に対して、加持身(かじしん)説法と呼ばれている。この考え方を今に伝えるのが新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)である。
岩出市根来の根来寺に「興教大師御荼毘所」がある。根来寺は新義真言宗の総本山である。興教大師(こうぎょうだいし)とは、この宗派の祖として崇敬されている覚鑁上人のことである。大師号は元禄三年(1690)に東山天皇から下賜された。
上人はこの場所で荼毘に付された。49歳であった。入滅は康治二年(1143)12月12日だから、院政期に活躍した高僧である。
根来寺の奥の院には、「興教大師御廟所」がある。
覚鑁上人は高野山で修行する中で、とりわけ教学の振興に努めた。その拠点として、現在の根来寺の源流となる大伝法院を建立した。その落慶法要は長承元年(1132)に、鳥羽上皇を迎えて盛大に執り行われた。長承三年(1134)に上人は、院宣により金剛峰寺と大伝法院の座主となり、実弟の信恵が検校となった。
上皇の権威を背景とした上人の勢力拡大は、守旧派との激しい対立を生むこととなる。そしてついに保延六年(1140)に山を降りて、現在の根来寺の場所に移り、二度と高野に帰ることはなかったのである。
上人が晩年を過ごした円明寺の南に「鳥羽上皇御駐輦(ごちゅうれん)所」がある。平たい石が大切に柵で囲まれている。しかし、上皇がこの地に行幸したとの確かな記録はない。
鳥羽上皇の厚い庇護が原動力となって根来寺が誕生することとなったのだ。ならば上皇がお出でになっても不思議ではない。むしろ、お出でになるほうが自然だ。そんな思いを平たい石が象徴しているのかもしれない。
このころ仏教界では、のちに大勢力となる思想潮流が胎動していた。浄土教である。阿弥陀仏を信じなさい。そうすれば、あなたは救われるのです。極楽浄土に生まれるのですよ。実に分かりやすい教えである。末法思想を背景として、民衆の間に急速に広まっていた。
これを覚鑁上人はどう考えたか。『興教大師全集』「五輪九字明秘密釈」より
顕教には釈尊のほかに弥陀あり、密蔵には大日すなわち弥陀、極楽の教主なり。まさに知る、十方浄土は、皆これ一仏の化土、一切如来はことごとくこれ大日なり。毘盧・弥陀は同体異名、極楽・密教は名異にして一処なり。
阿弥陀仏は大日如来ですよ。さまざまに名前が付けられていても、すべてが大日如来だと言ってもよいでしょう。浄土教を排撃するのではなく、密教の概念に包摂してしまったのである。なんとふところの深い教義であることよ。
覚鑁上人の少し後の時代から鎌倉仏教が興隆していく。法然や日蓮らの祖師たちは、民衆に分かりやすい教えを説く宗教改革者であった。「易行」は鎌倉仏教の特色である。
とすれば、覚鑁もまた然りである。学問を追究する一方で、易行の考えを取り入れ教線を拡大しようとした。鎌倉仏教の先駆者と位置付けても差し支えないだろう。
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